「週6日学校に通っていた子供」と「週5日しか学校に通わない子供」
「週6日働いていた大人」と「週5日しか働かない大人」
いまでは当たり前のこととなった「週休2日」という習慣も、数十年前の「日本人」にとっては「非常識」なことでした。
このようなことを記憶していて、その違いや、違いが生み出す変化について考えている「国民」たちはどれくらいいるのでしょうか?
自分は、ここ最近、「ネットカフェ難民」は「経済改革」によって生まれた「格差社会」が原因で生まれた問題だ!と主張している「マスコミ」や、「野党」は「嘘つき」だ、という記事をいくつか書き、
そのなかで、「ネットカフェ難民」の問題は、「格差社会(経済格差)」よりも、「精神格差」が原因だ、と主張しました。
「マスコミ」や、「野党」が主張している「ネットカフェ難民問題」という「嘘」については、最期に、一言だけ触れて一先ず論ずるのを止めたいと思います。
「ネットカフェ難民たちが、ネットカフェや、ファーストフード店や、ビデオボックスを利用している時間帯に、そこの店(コンビニや、居酒屋等を含む)で、レギュラーとして働いている人と、難民たちのどちらが稼いでいるでしょうか?」
「マスコミ」や、「野党」の人たちが、この問いかけに明確に答えた上で、「ネットカフェ難民たちは、いくら働いてもお金が溜まらないのだ!その原因は自民党の行った経済政策による格差社会が原因だ!」という従来通りの主張を繰り返すのならば、そのような人たちはもう相手にはしません。
「夜は働きたくありません」、「長時間労働は嫌です」、「昼間に、日給1万2千円以上稼げる仕事はたくさんありますが、肉体的に疲れるのは嫌です」
このような人たちも含めて、「それでも政治が悪い!」と言うのならば、もう「自分の主張に逆らう者たちは全て悪だ!」というのと同じですから、完全にお手上げです。
自分は、「ネットカフェ難民」の大半は、「経済政策」が生み出したものではなく、「教育政策」や、「戦後日本社会」そのもののあり方によって発生した「精神格差」が原因で生み出されたもので、
冒頭で取り上げた「週6日社会生活(強制や、拘束を伴う生活)」から「週5日社会生活」への移行や、「テレビのリモコン登場」や、「テレビのチャンネル選択の自由」や、「リセットボタンの普及」や、「パチンコ・パチスロ精神(好きな時に、休憩し、トイレへ行き、飲食が出来き、休める)」や、「電話を好きな時に掛けられる自由(携帯電話の普及)」や、「目上の人と対等に付き合う自由」や、「親や、お年寄りを敬わなくてもいい自由」や、「校則を守らなくてもいい自由」や、「日の丸・君が代を敬わなくてもいい自由」、「国を愛さなくてもいい自由」等々が重なり合った結果として、生まれた、
「日本人」の「精神の弱体化」=「個に対する責任しか負わない精神」
が「ネットカフェ難民」たちを増加させている最大の要因であると考えています。
一昔前の「日本人」と比べると、いまの「日本人」は、「精神(集中力・忍耐力・持続力・身体力・呼吸力・夢や希望を見る力・責任感等々)」を「鍛錬」する機会を、大幅に「削減」された環境で「社会人(成人)」となるまでの時間を過ごすしかありません。
そのような「状態」のままで、ある日突然「社会」へと放り出されると言うことは、「筋力強化」を怠り、「受身」も習得していない人を「プロレス」の「リング」へと上げることと変わらないのです。
そんな「社会」に、けが人や、脱落者や、長期離脱者などが増加してしまうのは当たり前なのです。
「特攻隊は無駄死だ」と言い、「大東亜戦争はただの侵略戦争で全く無意味なものだった」と言う「大人」たち。
「公よりも個の方が大切だ」と言う「大人」たち。
「個」の「部屋」、「風呂」、「テレビ」、「電話」、「パソコン」、「対人関係」の中で育った「子供」たち。
「友達」にも、「親」にも、「同僚」にも、言えない、頼れない「個人」たち。
そんな人たちを救うには「強制」が必要です。「成長」に合わせて「自由」を与えることは大切なことです。しかし、「始まりからの自由」や、「制限なき自由」は、後々の「苦しみ」を生み出すだけです。
だから、「文部省」や、「政治家」や、「教師(親)」たちが、「精神鍛錬の場」の多くを失った「子供」たちに与えなければならなかったのは、「新たな精神鍛錬の場」だったのです。
しかし、彼らが「子供」たちに与えたのは、更なる「ゆとり」でした。
そんな「欠陥社会」が生み出したのが、「ネットカフェ難民」や、「依存症患者」や、「ひきこもり」や、「ニート」や、「犯罪者」や、「自殺者」たちの増加です(これらの問題は、個の問題というよりは、公のあり方の問題なのです)。
「国民」たちに多くの「ゆとり」を与えて、「レベルの低い人たち」に「基準」を合わせるということは、「ゆとり基準」に合わせて生きている人たちと、「ゆとり基準」に逆らって「努力」を重ねている人たちの「格差」を広げるのと同じです。それが「ゆとり基準」からも「脱落」してしまった人たちとの「格差」となると・・・。
「マスコミ」や、「政治家」たちの多くは、自らが「問題の根源」でありながら、そのことを「隠蔽」し、捻じ曲げ、他人に擦り付け、何でもかんでも「個」に結び付け、「社会」を混乱させている最悪の存在です。
昔の「日本人」はなぜしっかりと「しつけ」を行い、「しきたり」を守らせたのか?
「新しい精神鍛錬の場」を作り出し、「社会」に組み込めるのか、に「日本再生」の鍵があります。
自分が目にした「情報(テレビ朝日など)」が余りにも酷すぎたのかもしれませんが、「ネットカフェ難民」の問題を、「自民党」の「経済政策」ばかりに結び付ける議論は暴論としか言いようがありません。
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*日常の大半を「外国人」たちの中で送っていて気が付いたことは、「左」ほど酷くはありませんが、「右」の「嘘」や、「印象操作」もかなり酷いものだと言うことです。
最近の世の中の流れを見ていると、「嘘」や、「印象操作」や、「偏向」の度合いが「強い」者から倒れていく、崩壊していく時代が来るのでは無いでしょうか。
このまま行くと、現在の「価値」や、「存在」の大半は近いうちに消え去る。
いまの時点で言えることは、「世界」の多く(特にアジア)は、「戦後日本化」していると言うことです。「戦後日本化」というのがポイントで、自分はそこにプラスアルファーで「隠し味」が必要だと思っているのですが、そんなことも含めて「ぶっ壊れる」では?と言うくらいに「世界」の「戦後日本化」は急速に進んでいる。
では「戦後日本」とは何なのか?と聞かれると、簡単には答えられないでしょうが、無我ではなく、「無化」、「無価」と言えばいいのでしょうか、「左巻き」が先に崩れたのは「嘘」や、「偏向」が強すぎた為と言えます。
そんな視点で見ると、「チャイナ共産党」など既に「幻想」です。だから、一部の「カルト」はいるでしょうが、「反日教育」や、「愛国無罪」・・・がどうのという「右」の主張も「幻想」と言えます。ただし、「一部」が馬鹿でかいことは問題ですが。
問題は「右」も「左」も壊れた後に、何が出てくるのか?ということです。「純日本」が出てくるのか、それとも全く別のものが出てくるのか?
いま「日本国民」の大半は、「右」からも「左」からも離脱した「中央(ニュートラル)」な場所に位置しています。
そこから出てきたものが「新時代」の「精神」となる。「無党派層」などはその発火点でしょう。どんなに足掻いても「有」は「無」に敵わない。「有」は「個化」していない限り、「無」に従っても、逆らっても確実に消え去る、同化してしまうのです。
「ネット普及」というのは、既に「世界」が「無」へと移行し始めた証で、例えば「2チャンネル」に「右」や、「左」の汚い言葉が飛び交っている・・・という議論も完全に「無」の一部です。「左」は「左」だけで、「右」は「右」だけで、「戦う時」も、「戦った後」も、「個」と「個」で。このような「構図」はこれからは成り立たなくなります。
いくら「左巻き」や、「特定アジア」や、「アメリカ」などが、「個」に基づいた「歴史観」を押し付け、押し通そうとしても、そんな事は絶対に不可能です。
「時代」は「個」を許しません。そのことに気が付かずに「他者」の「個」を攻撃しているのが彼らなのです(自分も似たようなものですが)。
そんな「時代」の流れの中で「日本人」たちが行うべきことは、「戦国時代」を出来るだけ早く、最小限の被害で終わらせることです。
その為には「個の暴走」をとにかく叩き続けることです。
「ネット界」の「お前が言うな!」は、実は「世界平和」に大きく貢献しているのです(「お前が言うな!」は、自分と意見が異なる人の主張を封じ込めるものではありません。「個の実態」を見て、的確に繰り出されている「お前が言うな!」を、危険だ!と主張している人たちこそが、本当に危険な人なのです)。
このような思考を持つのは「東京」の「魔術」に犯されたのかもしれませんが、そのような文化は「江戸時代」からの伝統ですので、何かあるのかも知れません「江戸(日本人)」には。「江戸」が全て(世界)を飲み込んで、「地方」は「江戸」との「近さ」と「遠さ」を同居させ、利用しながら発展していく。「東国原知事」などはその象徴なのかもしれません。
[参考]

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