2006年04月09日

「日本語」を見つめなおす時が来た

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(朝日新聞より)

小学校英語必修 都知事「ナンセンス」発言に文科相反論

小坂文部科学相は7日午前の記者会見で、東京都の石原慎太郎知事が国語力の低下を理由に、小学校段階での英語必修化を「全くナンセンスだ」とこき下ろしたことについて、「日本語をしっかり勉強することが基本だが、柔軟な頭脳を持っている児童が英語に親しみ、英語教育に取り組むのは決して否定すべきことでない」と反論、英語教育の必要性を4分間近く訴えた。

 小坂文科相は「すでに9割の小学校が英語活動に取り組んでおり、機会の均等を考えるとどの学校でも英語活動に親しめる環境作りは必要だ。インターネットのコンテンツは9割が英語だ」と述べた。


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私は、小学校の頃から、「英語」の教育を行うことは否定しませんが、もしも、今まで以上に「英語」教育に力を入れていくというのならば、「日本語とは何なのか、英語とは何なのか」「英語(外国語)を勉強することによって、何を得られて、何を失うのか」「なぜ英語(外国語)を勉強する必要があるのか」ということについて、もう一度、真剣に考えてからにするべきだと思っています。

例えば、「言語」には、「母音語」と「子音語」があります。「母音語」とは、ア・イ・ウ・エ・オという「母音」を主体とする言語で、「子音語」とは、カ・キ・ク・ケ・コなどの「子音」を独立させた形で使用する言語です。

現在の世界で「母音語」を使用しているのは、「日本人」や「ポリネシア人」などだけで、その他の地域の住人たちは「子音語」を使用しています。

「小学校の頃から「英語」を教える」ということは、「小学校の頃から「子音語」を教える」と置き換えることが出来ます。

それがどうしたのだ。と思う方が多いと思いますが、

その人が使用する言語が「母音語」であるのか、「子音語」であるのかで、その人の「脳」の働きは大きく違ってきます。

「母音語」を話す人と、「子音語」を話す人の「脳」の働きはどのように違ってくるのかというと、「左脳」と「右脳」の役割が違って来ます。

「左脳」は言語や計算を、「右脳」は想像を司るというのは、全人類共通の機能ですが、「母音語」を話す人と、「子音語」を話す人では、「言語」の定義が違ったものとなります。

普通、「言語」といえば、日本語や英語やロシア語や北京語などの人間が話す「言葉」だけを指しますが、「母音語」を話す人にとっての「言語」には、そこに、「自然界の音(風や波や川のせせらぎなど)」や「動物や虫の鳴き声」や「感情音(泣く、笑う、哀しむなど)」や「和楽器の音」なども、人間の「言葉」と同じ、「言語」に加えられます。

「日本語(母音語)」を話している人たちは、「外国語(子音語)」を話している人たちとは違って、人間とだけではなく、「自然」や「動物や虫たち」とも「会話」が出来るのです。

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「日本人ですと、部屋の外でコオロギが鳴いていても、われわれは話しながらすぐわかるわけです。話しながらコオロギの音にハッと気がついて、いいなと思ったり、秋を感じたりするわけですが、西洋人はそういうことは絶対にないですね。虫が鳴くということを知らない人も多いし、話しながら途中で虫の音に気づくようなことはまずないのです。西洋人は虫の音を知らないのです」

「われわれは、それも道を歩いて、コオロギが鳴いている音とか、自然の音は全部取り入れてしまう。ですから、われわれは動物に近いような、動物に親和性のあるような脳を持っているのだと思うのです」(角田忠信)


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「母音語」を話しているのか、「子音語」を話しているのかの違いは、人と自然や動物たちとの接し方だけではなく、「人」と「人」の接し方の違いも生み出します。

よく欧米人は、「日本人は無表情だ」「日本人は感情を表に出さないから不気味だ」と言います。逆に、日本人から見ると、欧米人や特定アジア人の「オーバーアクション」に対して違和感を感じますが、この両者の違いは、「相手の感情を察する能力」の違いによって生まれたものです。

「母音語」を使用している日本人は、「感情音」を言語として「感じる」ことが出来ますから、「何も言わなくてもいい、わかってるから」というやり取りが成立するわけです。それに対して「子音語」を使用してる人たちは、「感情音」を感じることが出来ませんから、「アクション」をして、「目に見える形」にしなければならないわけです。日本と韓国の「葬式」や「抗議集会」などを比べれば、その違いがよく理解できると思います。

小学校の頃から「子音語」を教えれば、相手の「感情」を感じる力を失ってしまいますから、日本人の「アクション」も、韓国人や欧米人に近づいていくことになります。

このような「脳」を持った「日本人」の教育は、西洋人の教育とは違った形に発展していきました。

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「日本人にとって自然を愛することは国の宗教のようなものである。子供たちはごく幼いときから石や植物や虫を愛することを教えられる。私が、言葉より正しい意味において「愛する」と言っていることに注意して欲しい。実際、それは愛であって好感とか愛着というものではない。日本人が同胞たる植物に向ける愛は、心優しく生気あふれる真実の愛情である。仏教説話の神髄を滋養としてきた日本人は、木の枝が憂いに沈んだり、野の草が苦しんだり喜んだりする心が隠されていることを知っている。こういうことがすべて、幼児の感性を育てるうえで素晴らしい教育となっている」(エンリケ・ゴメス)

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私たち「日本人」は、「自然」や「動物たち」との繋がりを生み出す「日本語(母音語)」を使うことによって、人間と自然や動物たちが「共生」する文化を築き上げてきました。

閑さや岩にしみ入る蝉の声 芭蕉

こほろぎに鳴かれてばかり 山頭火

このような「句」も芭蕉や山頭火が、幼少期から「子音語」教育を受けていたならば、生まれていなかったことでしょう。また、いま私たちが、芭蕉や山頭火の「句」を詠んで、「嗚呼〜いいな〜」と思えるのも、私たちの「脳」のベースが「母音語」で作られているからに他なりません。

「わび」「さび」「もののあわれ」の感情が、日本人に強くあることも、「母音語」の使用と無縁ではありません。

外国の人たちとの、コミュニケーションは非常に大切なものだと思います。しかし、文部大臣の言うように「機会の均等」を重視して、全ての国民に教える必要があるのか、しっかりとした「母音語脳」が形成される前に「子音語」を教えるべきなのか(「母音語脳」が形成されてしまうと「子音語」は覚えにくくなってしまいますが)、ということについては、もう一度、真剣に考えてみるべきでしょう(私は、小学校よりも早い時期から「外国語(子音語)」を教える学校も、逆に、全く「外国語(子音語)」を教えない学校も造るべきだと思っています)。

また、「母音語」と「子音語」を別の面から見ますと、人類は「子音語」を使用するようになってから、「自然」や「動物たち」から離れて行き、「自然」や「動物たち」は、「人間」の為に存在するのだ、と考えるようになり、環境破壊や、動物たちの「虐殺」や「家畜化」が生まれ、そのことがやがて、「戦争」や「階級」や「奴隷」などを生み出す原因ともなりました。

「GOD」はそこから生まれ、それがやがて「一神教」に発展し、「個人(GOD)主義」が生まれたわけです。現在の世界を見渡してみたならば、「子音語文化」である、戦争やテロや人種差別や環境破壊や個人主義は、多くの犠牲者と、悲劇を生み続けている状態です。

それに対して、「母音語文化」は、「神」と「神」、「人」と「人」、「人」と「自然や動物たち」が共生する文化を発展させてきました(両者の違いは「環境」や「地理的」要因によりますので、「人種」に結び付けて考えないようにする必要があります)。

「子音語文化」に属する人たちが、オイルショックの際に、ひたすら新しい「石油」の確保に走ったのに対して、「母音語文化」に属する日本人は、「自然」に負担をかけない「省エネ」に走りましたが、その「発想」の違いも、「脳」の働きの違いが生み出したものです。

日本が、ハイブリッドカー開発の先頭を走っている理由もそこにあります。現在、世界では「資源」を巡った争いが繰り広げられていますが、もしも、日本が再び「母音語文化」に本気で目を向け、真剣に学び、その叡智を活用したならば、イラクやアフガンのような戦争を抑止でき、貧困や飢餓や自然環境の回復に大きく貢献できるかも知れません。

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「神道および仏教思想は、人間が自然と対峙するにあたって倫理的義務を具現化したものだと言える。私は日本の人々こそが人類をより安全で幸せな方向へと導く能力を有すると信じている。 日本という国は自らの宗教的伝統を失うことなく、西洋社会の近代技術を習得した。日本の伝統は、西洋社会の近代技術がもたらす自然破壊、および日常生活における人間性の精神的な解毒剤として作用する機能を担っている。日本の伝統は、自然の威厳と、人間が本来持って生まれている威厳を庇護するものだ」(トインビー)

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「日本語」だけではなく、「日本文化」について、もう一度、見つめなおす時が来ているのではないでしょうか。

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[参考文献]

日本人の脳―脳の働きと東西の文化・角田 忠信(著)

右脳と左脳―その機能と文化の異質性・角田 忠信(著)

奥の細道―マンガ日本の古典 ・矢口 高雄(著)

山頭火句集・種田 山頭火(著)

日本の文化力が世界を幸せにする

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2005年08月25日

「公約」と「マニュフェスト」

今回の選挙を見ていると、日本に「マニュフェスト」という言葉が定着したなと実感しますが、ここで一つ考えたいことがあります。

「公約(政権公約)」を「マニュフェスト」と呼び換える必要があるのか?ということです。

日本語名をカタカナ英語に呼び換えることは、企業を中心に既に広く行なわれています。
このことは、経済や企業の国際化が進んでいることから必要であるとも思いますが、報道や街中の看板・広告に見られる、カタカナ英語(ローマ字)の氾濫には重大な問題点があるのではないでしょうか。

実は同じような問題は明治時代にも起こっていました。今と比べれば圧倒的にカタカナ英語(ローマ字)の表記は少なかったでしょうが、徐々に増えつつあるカタカナ英語(ローマ字)とそれを推進しようとする者たちに対して、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は危機感を抱きます。

これらの街のすばらしい絵のような美しさは、その大半が、他でもない、これらの文字-門柱や障子・ふすまの類まで、あらゆるものを白、黒、青、金色に彩っている漢字と日本の文字の氾濫に由来するのだと思い当たる。そして一瞬、それら魔術のような文字を英字に置き換えてみたらという想像が湧くかもしれない。だがこれは考えてみただけでも、多少とも審美感情を有するほどの人なら、思わず衝撃に身ぶるいを禁じ得ない妄想だろう。そして、現に私がそうだったように、「日本ローマ字会」の強硬な反対者になるだろう-この会は、日本語を書くのに英字を用いることにしようという、醜悪きわまる実利一辺倒の目的のために創立された会なのである。


「日本ローマ字会」なる団体の存在は、今まで知りませんでしたが、以前に紹介した、「日本には歴史など存在しないのです」と、同じく明治維新期に言い放った、西洋カブレの日本人と共通するものがあります。このような人物の存在は必ず一定期間を置いた後に、大きな弊害をもたらすというのは日本の歴史の鉄則で、戦後のソ連カブレ、中国・朝鮮カブレの弊害は、未だに尾を引いています。

話を「日本語」に戻すと、現代の日本でも「英語」や「フランス語」を公用語や第二公用語にしようという動きは根強くありますし、小学校の頃からの必修科目にしようという動きもあります。

ハーンは審美感情の面よりも、「思考」の面での弊害を大きく指摘しています。

表意文字が日本人の頭脳に作り出す印象と、音声の生気に乏しい漫然たる符号に過ぎない、一箇ないしは幾つかの文字が西洋人の頭脳の中に生み出す印象とは、格段の開きがある。日本人の頭脳にとって、表意文字は、生命感にあふれる一幅の絵なのだ。それは生きて、物をいい、身ぶりまでする。そして日本の街は、いたるところに、こうした生きた文字を充満させているのだ。


表音文字一辺倒の弊害は、既に韓国で顕著に現れており、呉善花さんは、韓国人の「単調」な思考は、漢字を「追放」したことに大きな原因があると指摘しています。(最近では漢字の復興の兆しも見られます)

日本でも「国語」能力の低さと、学校の成績は比例し、犯罪や非行に走る確率も増加するとの研究結果もだされています。

「公約」と私たちが目にした時の「感覚」と、「マニュフェスト」と目にした時の「感覚」は、まったく違うものであることは、日本人ならば実感できるはずです。

「公約」と「マニュフェスト」

文字を「感じる」ことのできる日本人を育て、文字から受ける「感覚」を大切にする日本でありたいものです。


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2005年05月25日

日本語のちから3

日本語のちからについて、2回続けてお届けして来ましたが、最後に、日本語(母音語)を話し、自然や動物たちと共存共栄して来た、日本人について語られた外国人の言葉を紹介して締めたいと思います。

初めから日本人は、自分たちを取り巻いている自然に驚嘆していた。日本人は慈悲深い大地と、魚がたくさんいる海を崇拝した。神々が彼らを幸福にしてくれるのだと心底から考えた。(ギメ)


ギメは、角田博士によって日本人の脳の機能が、自然や動物たちの「声」を言語として聴いているという研究が行なわれる遥か昔に、日本人の自然や動物との繋がりが、文化や芸術に見られる、調和を生み。和の世界を築き上げているのだと分析しています。

枯山水、わび茶の庵、手びねりの茶器、白水の社、露天の岩風呂・・・。いずれについてもすぐれたものは、文化の中に自然を包み込みながら、まるで自然のなかに文化が包み込まれるような感じにさせられるものだ。共通するのは、素材の自然なあり方の質を壊すことなく、どう手を加え、どう生かすかについて、おそらくは際限のないほどの工夫が凝らされていることである。(呉善花)


母音語を話す日本人にとって、自然は支配するべきものでも、対立するものでも、人間の為に存在するものでもなく、共に共存共栄していく対象なのだ。

日本人にとって自然を愛することは国の宗教のようなものである。子供たちはごく幼いときから石や植物や虫を愛することを教えられる。私が、言葉より正しい意味において「愛する」と言っていることに注意して欲しい。実際、それは愛であって好感とか愛着というものではない。日本人が同胞たる植物に向ける愛は、心優しく生気あふれる真実の愛情である。仏教説話の神髄を滋養としてきた日本人は、木の枝が憂いに沈んだり、野の草が苦しんだり喜んだりする心が隠されていることを知っている。こういうことがすべて、幼児の感性を育てるうえで素晴らしい教育となっている。(エンリケ・ゴメス)


なんて、素晴らしい教育だろうか。このような教育を受けた子供達が、どれだけ豊かな心を育んで行くのかは容易に想像出来るだろう。
GODを信仰する者同士は必ずぶつかる。しかし、自然を信仰する者同士が、ぶつかることがあるだろうか。
人々が争い、憎しみあうような、愚かな教育の代わりに、自然を愛する心を育む教育が行なわれたならば、世界は、どれだけ平和になることか。

神道および仏教思想は、人間が自然と対峙するにあたって倫理的義務を具現化したものだと言える。私は日本の人々こそが人類をより安全で幸せな方向へと導く能力を有すると信じている。
 日本という国は自らの宗教的伝統を失うことなく、西洋社会の近代技術を習得した。日本の伝統は、西洋社会の近代技術がもたらす自然破壊、および日常生活における人間性の精神的解毒剤として作用する機能を担っている。 日本の伝統は、自然の威厳と、人間が本来持って生まれている威厳を庇護するものだ。(トインビー)


地球環境の保全を経済成長と両立させながら確実に実行しようとすれば、日本経済活動をモデルにする以外、ほかに選択の余地がどこにあるというのだろうか。そういう現実をいま日本人は十分に直視しなければならない。(ドラッガー)


日本語(母音語)を話す者として、自然や動物たちと共存共栄する文化を持つ者として、日本人に何が出来るのか。日本語のちからを理解して、もう一度、考えてみましょう。
人類が抱えている数多くの問題を解決する「答え」の大半を、もうすでに日本人は持っているはずですから。



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2005年05月24日

日本語のちから2

前回は、日本語(母音語)を話す人たちは、子音語を話す人たちとは違って、自然や虫や動物たちの「声」を聴けると書きました。

その、ちからによって、日本人は自然や虫や動物たちは、人間と同じ「命」だという感覚を持ち続け、共に歩んできた。
一方、自然界の声を聴けなくなった(聴かなくなった)子音語を話す人たちは、自然や動物たちは、「神」が「人間」の為に創った「モノ」なのだと、考えるようになり、
自然を破壊し、動物たちを家畜化していった。

自分たちだけが、「神」に選ばれた者なのだと考えた、子音語を話す人たちは、驕り、うぬぼれ、欲望をコントロール出来なくなっていく。

その結果として、生まれたのが、階級、差別、奴隷、侵略、虐殺、環境破壊などである。

人間は狂ったように暴走を続ける。何十億年もかけて築き上げてきた、この地球の秩序を驚くべき速さで破壊し始めたのだ。

その流れにストップをかけたのが、日本である。

母音語を話していた人たちは、「人間」として、常に自分だけではなく、回りの人たちや自然や動物たちに対しても、同様の配慮をする平和的な生活を送ってきた。

それに対して、子音語を話す人たちは、「個人」である。常に自分が、自分がと考え、回りの人たちや自然や動物たちを傷つけてでも、自分の利益を優先してきたのだ。
子音語を話す人たちは、動物の世界にも存在しない、空前絶後の弱肉強食社会を築き上げてきたのだ。


当然のことだが、両者には大きな差が生まれることになる。
自分だけが成長していくことを考えたなら、「人間」として、常に回りの存在に配慮している母音語を話す人たちよりも、「個人」として、自分のことだけを優先する子音語を話す人たちの方が有利に決まっている。

「人間」や自然や動物たちは、次から次へと「個人」によって支配されていった・・・。

「人間」は絶滅した。太平洋の島々に暮らす者たちを除いては。
ポリネシアの「人間」たちは、「個人」と戦うには、地理的環境に恵まれていなかった。
しかし、日本の「人間」たちは、古くから、程よい環境で「個人」の文化に触れていたこともあって、「個人」と戦うだけの力を持ち合わせていた。

黒船の来襲をきっかけとして、「人間」と「個人」の戦いは始まったのだ。
その闘いは、いまも続いている。いつまで、続くのかは分からない。

しかし、出来るだけ早期に終わらせなければならないだろう。

人類は「個人」を捨てることは出来ない。人類の「脳」を持っているからだ。

脳には「個人」を求める欲求が組み込まれている。

究極の「個」である「GOD」のことを考えてみて欲しい。
「GOD」とは人間がコントロール出来なくなった「個」に対する欲求である。


「個」は「GOD」を目指す。

自然や動物たちを支配し、男が女を支配し、創造主になろうと、クローンの技術を開発し、不老長寿を目指し、全知全能を目指し、ハルマゲドンを起こす力を持とうとする。
自分だけが正義で、自分だけが絶対に正しいと考える。だから、争いが絶えることは無い。だから、傷つけ殺しあう。


もう、いいだろう・・・「個人」は。「人間」に戻ろう。
人と人、人と自然、人と動物たちが共存共栄していた、あの頃へ。

中国や韓国や北朝鮮は「個人化」を進めている。宗教原理主義者も「個人化」を進めている。
日本では、左翼が「個人化」を進め、在日韓国、朝鮮人も「個人化」を進めている。
グローバル、アメリカンスタンダードという「個人化」も進んでいる。

幕末から、日本人は「武力」で「個人」と戦い、そして、敗れた。
しかし、戦いは無駄では無かった。

人種差別は弱くなり、植民地は無くなった。人間の残虐化にも歯止めが掛かった。
だが、まだまだ、人類は「個人という病気」を克服出来ていない。

平和な世の中を築くためには何が必要なのか?何が大切なのか?日本人の役割は大きい。
いま、欧米の心理学者たちの間では、日本式のコミュニケーションや考え方の研究がさかんに行なわれている。

人間は「個人」として生きていけるほど、強くは無いという研究結果も出ている。人間が「個人」になろうとする時、必ず無理が生まれ、他人や自分に対する「暴力」が生まれる。人間は人間でいいのだ。

日本人は、もう一度、考える必要がある。「個人」は日本に何を生み出したのかを。
「個人」によって「歪曲された日本の姿」ではなく、「本当の日本の姿」について、真剣に考えてみる必要があるだろう。

「金」や「武力」ではなく、「人間の文化」こそ、日本の宝であり、世界の宝なのだ。

最近の、経済界や政界の人たちが、「金」や「暴力」に屈して、「人間の文化」を捨ててしまっていることは、残念で仕方が無い。

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2005年05月18日

日本語のちから

いや〜日本語ブームですね。最近は韓流ブームなどの影響もあって、韓国語を習い始める人が急増しているということですが、私は、この機会に、もっと日本語にも目を向けるべきだと思っています。

個人的には韓国語は習うべきではないと考えていまして、それは、日本語と韓国語が180度性質が違う言語だからです。
簡単に言うと、日本語は世界で最も自然な言語であるのに対して、韓国語は世界で最も不自然な言語であるからです。

もっと詳しく説明すると、日本語は「母音語」、韓国語は「子音語」で、
他に母音語を話すのは、ポリネシアの人たち、子音語を話すのは、その他の地域全てとなります。

なぜ、母音語を話す人たちと、子音語を話す人たちに分かれるのかというと、
有力な説が二つありまして、一つはプレートが集中している地域か、そうでないか、で違いが生まれるという説。
二つ目は、戦争や侵略などの危機が少なかった地域か、そうでないか、で違いが生まれるという説。

母音語については、古代人類の共通言語だったという説もありまして、日本語とネイティブアメリカン語、古代朝鮮語、古代インド語の共通点が指摘されています。
日本語は古代朝鮮語だったなんていう本も、韓国人お決まりの「教えてやった論」で書かれていますが、韓国人が、その他の地域同様に古代言語を捨てたというのが、本当の所でしょう。

母音語と子音語の違いは、発音方法にあるのですが、最も大切なポイントは別のところにあります。

何が一番大切かというと、母音語を話す人たちは、虫や鳥や動物たちや自然界の音などを人間の言語と同様に聴くのに対して、子音語を話す人たちは、ただの雑音にしか聴こえないということです。

つまり、母音語を話す人たちは、自然や動物たちと人間は同じ世界の住人、仲間だと考え、子音語を話す人たちは別世界の「モノ」だと考えているのです。

日本人が当たり前のように聴いている、虫の声や風の音や波の音を、子音語を話す人たちは、何分の一、何十分の一しか聴けていないのです。この違いが、自然や動物たちに対する極端なスタンスの違いを生むことになります。

この違いを認識すると人類の歴史の謎は殆ど解けてしまいます。

日本語(母音語)は古代人類の共通言語だったという説は、どうでしょうか?

私は、間違いないと断言してもいいと思っていますが、それは、かなり昔の話になるので、ほぼ間違いないとしておきましょう。その根拠は何か。

日本語が古代人類の共通言語だったという根拠1・昔は全世界が日本と同様に多神教だった。
根拠2・昔は全世界に日本と同様の自然信仰があった。
根拠3・昔は全世界に獣人一体型の神や獣神が存在した。
根拠4・世界の多くの地域の神話や昔話に、かつて人類は、自然や動物たちと会話をしていたとの記述が見られる。
根拠5・中東地域で環境の大変動があって、自然環境が極端に厳しくなってから、一神教が生まれ、自然や動物たちは、神が人間の為に創ったとなり、差別が始まる。

以上の根拠から、人類が母音語を使い自然や動物たちと共存していた社会が、子音語を使いクラッシャーに変貌していったのは、いまから、6千年から5千年前であると考えられる。

環境を破壊し、動物たちを家畜として「差別」しだした人類は、その後、残虐性に歯止めが効かなくなり、戦争、虐殺、奴隷、差別、環境破壊という愚かな道を歩みだすことになった・・・。

と言うのが私の仮説なのですが、それは、さて置いても「日本語」を話していると自然や動物たちと繋がっているというのは事実であり、私は、これからの世界のあり方を考えてみた時に、日本人の、そのような特殊性こそが必要であると思っています。

日本語を話している私たちは、子音語を話している人たちと、自然や動物たちの橋渡し役になれるのです。

母音語という観点で日本人を見れば、オイルショックの際に欧米諸国は新しい石油を血眼になって探したのに対して、日本人は省エネ化を進めたことや、現在のハイブリッドカーなどの最先端技術も納得がいきませんか。

また、日本人は食事の際に「自然や動物たちの命」に対して「いただきます」ということや、家畜を持たなかったこと、人間だけではなく、動物を殺しても穢れの意識を持ったこと、山の神、海の神などに対する感謝、いただいた命に対しての供養。すべてが繋がってきます。

短歌、俳句、和歌に見られる多くの自然。私たち日本人は、常に自然と調和し、まさに「自然体」で生活してきたのです。鎌倉の海岸には、日本式の堤防が存在します、その堤防は、欧米式のように波の力を力で防ぐものではなく、大きな石、小さな石を組み合わせ、波を石の隙間で分散させ中和させるように出来ています。自然は人間と対峙するものでも、支配するものでもなく、共に共存するものだという日本人の心があらわれているのです。

人と人との関係も同様です。自然や動物たちと自分は違うのだと考えた、欧米人や中・韓人は、唯一絶対のGODや天や王という「個」を目指す、「個人主義社会」を築き上げました。人々は互いに信頼しあうことが出来ず、強固な崇拝や契約や戒律などを必要とし、傷つけあう文化を世界中に広めていきました、その文化は、大きな進歩を生むと同時に、数え切れないほどの悲劇を生み続けてきたのです。

私たち、日本人は幸いなことに世界で最も恵の多い島国で育ちました。その恵の中で、唯一絶対の存在など無く、全ての命が神として共存できる、神々の世界、「公の社会」を築き上げることができ、欧米や中・韓のような、差別も階級も戦乱も飢餓もない世界で最も平和な文化を生み出してきたのです。人間の世界は、いまだに殺し合い、憎しみあい、環境を破壊し、多くの悲劇を生み続けている。世界で最も恵の多い世界で育ち、平和な文化を築き上げてきた日本人は、いまこそ「恩返し」をする時なのです。

日本語を、母音語を世界中に広めることは、困難でしょう。そうならば、日本人が築き上げてきた、平和な文化を伝えていけばいい。「個人主義者」が相手を正確に見極めるのは難しいことです。「個人」という不自然な存在のままで、何を見ても全ては歪んでしまうものです。ならば、私たち日本人が見るのです。「個人」ではなく、「人間」として、国を民族を宗教をイデオロギーを超えて、私たち人間が行なってきたことを、私たち人間がいま行なっていることを、人と人、人と自然や動物たちが共存共栄していくには、どうすればいいのか、考えて伝えていきましょう。

小学校で英語の学習が本格的に導入されれば、日本人から、自然や動物たちと直接対話する能力は消えてしまいます。

そうなってしまう前に、もう一度、日本の文化、日本語の文化を見直し後世に伝えていく必要があるでしょう。日本語には、大いなる自然のちからと可能性が潜んでいるのです。


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