(朝日新聞より)
小学校英語必修 都知事「ナンセンス」発言に文科相反論
小坂文部科学相は7日午前の記者会見で、東京都の石原慎太郎知事が国語力の低下を理由に、小学校段階での英語必修化を「全くナンセンスだ」とこき下ろしたことについて、「日本語をしっかり勉強することが基本だが、柔軟な頭脳を持っている児童が英語に親しみ、英語教育に取り組むのは決して否定すべきことでない」と反論、英語教育の必要性を4分間近く訴えた。
小坂文科相は「すでに9割の小学校が英語活動に取り組んでおり、機会の均等を考えるとどの学校でも英語活動に親しめる環境作りは必要だ。インターネットのコンテンツは9割が英語だ」と述べた。
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私は、小学校の頃から、「英語」の教育を行うことは否定しませんが、もしも、今まで以上に「英語」教育に力を入れていくというのならば、「日本語とは何なのか、英語とは何なのか」「英語(外国語)を勉強することによって、何を得られて、何を失うのか」「なぜ英語(外国語)を勉強する必要があるのか」ということについて、もう一度、真剣に考えてからにするべきだと思っています。
例えば、「言語」には、「母音語」と「子音語」があります。「母音語」とは、ア・イ・ウ・エ・オという「母音」を主体とする言語で、「子音語」とは、カ・キ・ク・ケ・コなどの「子音」を独立させた形で使用する言語です。
現在の世界で「母音語」を使用しているのは、「日本人」や「ポリネシア人」などだけで、その他の地域の住人たちは「子音語」を使用しています。
「小学校の頃から「英語」を教える」ということは、「小学校の頃から「子音語」を教える」と置き換えることが出来ます。
それがどうしたのだ。と思う方が多いと思いますが、
その人が使用する言語が「母音語」であるのか、「子音語」であるのかで、その人の「脳」の働きは大きく違ってきます。
「母音語」を話す人と、「子音語」を話す人の「脳」の働きはどのように違ってくるのかというと、「左脳」と「右脳」の役割が違って来ます。
「左脳」は言語や計算を、「右脳」は想像を司るというのは、全人類共通の機能ですが、「母音語」を話す人と、「子音語」を話す人では、「言語」の定義が違ったものとなります。
普通、「言語」といえば、日本語や英語やロシア語や北京語などの人間が話す「言葉」だけを指しますが、「母音語」を話す人にとっての「言語」には、そこに、「自然界の音(風や波や川のせせらぎなど)」や「動物や虫の鳴き声」や「感情音(泣く、笑う、哀しむなど)」や「和楽器の音」なども、人間の「言葉」と同じ、「言語」に加えられます。
「日本語(母音語)」を話している人たちは、「外国語(子音語)」を話している人たちとは違って、人間とだけではなく、「自然」や「動物や虫たち」とも「会話」が出来るのです。
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「日本人ですと、部屋の外でコオロギが鳴いていても、われわれは話しながらすぐわかるわけです。話しながらコオロギの音にハッと気がついて、いいなと思ったり、秋を感じたりするわけですが、西洋人はそういうことは絶対にないですね。虫が鳴くということを知らない人も多いし、話しながら途中で虫の音に気づくようなことはまずないのです。西洋人は虫の音を知らないのです」
「われわれは、それも道を歩いて、コオロギが鳴いている音とか、自然の音は全部取り入れてしまう。ですから、われわれは動物に近いような、動物に親和性のあるような脳を持っているのだと思うのです」(角田忠信)
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「母音語」を話しているのか、「子音語」を話しているのかの違いは、人と自然や動物たちとの接し方だけではなく、「人」と「人」の接し方の違いも生み出します。
よく欧米人は、「日本人は無表情だ」「日本人は感情を表に出さないから不気味だ」と言います。逆に、日本人から見ると、欧米人や特定アジア人の「オーバーアクション」に対して違和感を感じますが、この両者の違いは、「相手の感情を察する能力」の違いによって生まれたものです。
「母音語」を使用している日本人は、「感情音」を言語として「感じる」ことが出来ますから、「何も言わなくてもいい、わかってるから」というやり取りが成立するわけです。それに対して「子音語」を使用してる人たちは、「感情音」を感じることが出来ませんから、「アクション」をして、「目に見える形」にしなければならないわけです。日本と韓国の「葬式」や「抗議集会」などを比べれば、その違いがよく理解できると思います。
小学校の頃から「子音語」を教えれば、相手の「感情」を感じる力を失ってしまいますから、日本人の「アクション」も、韓国人や欧米人に近づいていくことになります。
このような「脳」を持った「日本人」の教育は、西洋人の教育とは違った形に発展していきました。
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「日本人にとって自然を愛することは国の宗教のようなものである。子供たちはごく幼いときから石や植物や虫を愛することを教えられる。私が、言葉より正しい意味において「愛する」と言っていることに注意して欲しい。実際、それは愛であって好感とか愛着というものではない。日本人が同胞たる植物に向ける愛は、心優しく生気あふれる真実の愛情である。仏教説話の神髄を滋養としてきた日本人は、木の枝が憂いに沈んだり、野の草が苦しんだり喜んだりする心が隠されていることを知っている。こういうことがすべて、幼児の感性を育てるうえで素晴らしい教育となっている」(エンリケ・ゴメス)
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私たち「日本人」は、「自然」や「動物たち」との繋がりを生み出す「日本語(母音語)」を使うことによって、人間と自然や動物たちが「共生」する文化を築き上げてきました。
閑さや岩にしみ入る蝉の声 芭蕉
こほろぎに鳴かれてばかり 山頭火
このような「句」も芭蕉や山頭火が、幼少期から「子音語」教育を受けていたならば、生まれていなかったことでしょう。また、いま私たちが、芭蕉や山頭火の「句」を詠んで、「嗚呼〜いいな〜」と思えるのも、私たちの「脳」のベースが「母音語」で作られているからに他なりません。
「わび」「さび」「もののあわれ」の感情が、日本人に強くあることも、「母音語」の使用と無縁ではありません。
外国の人たちとの、コミュニケーションは非常に大切なものだと思います。しかし、文部大臣の言うように「機会の均等」を重視して、全ての国民に教える必要があるのか、しっかりとした「母音語脳」が形成される前に「子音語」を教えるべきなのか(「母音語脳」が形成されてしまうと「子音語」は覚えにくくなってしまいますが)、ということについては、もう一度、真剣に考えてみるべきでしょう(私は、小学校よりも早い時期から「外国語(子音語)」を教える学校も、逆に、全く「外国語(子音語)」を教えない学校も造るべきだと思っています)。
また、「母音語」と「子音語」を別の面から見ますと、人類は「子音語」を使用するようになってから、「自然」や「動物たち」から離れて行き、「自然」や「動物たち」は、「人間」の為に存在するのだ、と考えるようになり、環境破壊や、動物たちの「虐殺」や「家畜化」が生まれ、そのことがやがて、「戦争」や「階級」や「奴隷」などを生み出す原因ともなりました。
「GOD」はそこから生まれ、それがやがて「一神教」に発展し、「個人(GOD)主義」が生まれたわけです。現在の世界を見渡してみたならば、「子音語文化」である、戦争やテロや人種差別や環境破壊や個人主義は、多くの犠牲者と、悲劇を生み続けている状態です。
それに対して、「母音語文化」は、「神」と「神」、「人」と「人」、「人」と「自然や動物たち」が共生する文化を発展させてきました(両者の違いは「環境」や「地理的」要因によりますので、「人種」に結び付けて考えないようにする必要があります)。
「子音語文化」に属する人たちが、オイルショックの際に、ひたすら新しい「石油」の確保に走ったのに対して、「母音語文化」に属する日本人は、「自然」に負担をかけない「省エネ」に走りましたが、その「発想」の違いも、「脳」の働きの違いが生み出したものです。
日本が、ハイブリッドカー開発の先頭を走っている理由もそこにあります。現在、世界では「資源」を巡った争いが繰り広げられていますが、もしも、日本が再び「母音語文化」に本気で目を向け、真剣に学び、その叡智を活用したならば、イラクやアフガンのような戦争を抑止でき、貧困や飢餓や自然環境の回復に大きく貢献できるかも知れません。
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「神道および仏教思想は、人間が自然と対峙するにあたって倫理的義務を具現化したものだと言える。私は日本の人々こそが人類をより安全で幸せな方向へと導く能力を有すると信じている。 日本という国は自らの宗教的伝統を失うことなく、西洋社会の近代技術を習得した。日本の伝統は、西洋社会の近代技術がもたらす自然破壊、および日常生活における人間性の精神的な解毒剤として作用する機能を担っている。日本の伝統は、自然の威厳と、人間が本来持って生まれている威厳を庇護するものだ」(トインビー)
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「日本語」だけではなく、「日本文化」について、もう一度、見つめなおす時が来ているのではないでしょうか。
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[参考文献]
日本人の脳―脳の働きと東西の文化・角田 忠信(著)
右脳と左脳―その機能と文化の異質性・角田 忠信(著)
奥の細道―マンガ日本の古典 ・矢口 高雄(著)
山頭火句集・種田 山頭火(著)
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