2008年04月08日

「職人・川内康範」

〜〜〜

「日々報道される新聞、ラジオなどによって、国民は対米欧戦争はまぎれもなく聖戦であり、特攻隊は人類解放の人柱であると信じて疑わなかった。 だから、戦犯として指名された政府軍人、並に哲学の徒と同列にマスメディアも槍玉にあがる-と予想していた。いや、大政翼賛会や文学報国会関係者は、一番先に戦犯として裁かれるであろうと肚を決めていた。 だが、意外にも免罪され、この機会にアメリカ的民主主義の敵ともいうべき、無政府・アナーキーや、共産主義者たちを「人道」の名において獄舎から解放した。徳田球一、野坂参三たちは米国GHQによって、左翼的思想が新生日本の変革者として認知されたと雀踊りして、天皇批判のアジテーションに走った。

 それはまさしく巧妙なアメリカ的トリックであり、(略) 米英ソ三国密約の最中に、原爆実験第二回目の成功(マンハッタン計画)がもたらされた(略)、 この原爆が、和平を望んでいる日本を無視して広島、長崎に投下され、日本敗戦の契機となった-とするアメリカ側の卑劣さは、不日、必ずや世界の心ある人々によって断罪されよう。 こんなわかりきった史実(戦争史観)が、戦後60年を数えて、なお混迷のまま、第二次大戦が論じられている現実は、日本だけだ。

日本軍が戦ったのは、西欧諸国、なかんずく、米英仏蘭によって植民地化されていた、東南アジア各国に駐留する派遣国家軍であって、日本が謝罪する必要はない-という、マレーシヤのマハティール首相や、東京裁判の不当性を真っ向から批判したインドのパール判事の存在を、日本の政治家たちはあらためて認識してしかるべきだろう」(川内康範)

〜〜〜

「川内康範」先生が亡くなりました。

生前の「川内」先生は、終始一貫して「日本(戦前・戦後)」の「マスコミ報道」のあり方について、批判を行っていたので、「川内」先生が亡くなったことについて、「マスコミ」各社が、どのように報じるのか、と注目していたのですが、どの「マスコミ」も残念ながら、「川内」先生の「本質」に迫ることの無い「アマチュア報道」ばかりでした。

少し前に、「マスコミ」が大きく取り上げていた「森進一」さんとの「おふくろさん騒動」も、「戦後日本人(日本国憲法下の日本人)」が失ってしまった「職人魂」や、「道徳観」の説明無くして、「本質」に迫ることは出来なかったのですが、「マスコミ」はただただ面白おかしく、「騒動」を取り上げるだけで、「川内」先生や、「森」さんの「人間の質の違い」に言及し、「日本社会」に、「教育」や、「仕事(職)」を巡る「問題」を提起しなかったことは非常に残念なことでした。

いまの「日本人」は、百年前の「日本人」と比べると、1日で数か月分の「情報」に接して生きています。

そんな「情報」を「大量(異常)」に「摂取」する「時代」における「マスコミ」の「役割」は、百年前と比べると、比べ物にならないほどに大きなものです。

「マスコミの質」は=「日本人の質」に直結するのです。そんな時代にも関わらず、「日本のマスコミ」は、「森進一」さんのように「低質」なままです。

かつての「日本」であれば、「森進一」さんのように「職人の魂」を踏みにじった人に、「活躍する場」が与えられることはありませんでした。

「森」さんの行ったことは、「川内」先生に対する「殺人(未遂)」です。

先日、「砲丸職人」の「辻谷(辻谷工業)」さんが、「チャイナ共産党」の「暴政」を許せない、として「ペキンオリンピック」への「砲丸」の提供を拒否した、ということが報じられました。

「辻谷」さんも、「川内」先生も、自分と、自分が生み出した「作品」を「命」と一体化させている「真の職人」です。

「日本国憲法下」で「日本史上最低」まで落ちてしまった「日本社会の質」を再び高めていくには、「国民」たちに、いまよりももっと「真の職人たちの姿」を広めていく必要があります。

「職人・川内康範」先生のご冥福を祈ります。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

〔引用・参考〕

わしズムVol.14

おふくろさんよ 語り継ぎたい日本人のこころ・川内 康範(著)

banner.png
↑投票よろしくお願いします。
posted by スーパー原始人 at 23:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月04日

「心の入った食事」>>>「憲法9条」

〜〜〜

「近頃は家庭料理に心入れや心配りが乏しくなった。いや、ひどいことに、朝飯も食べさせずに勤めや学校へ出させる主婦が多くなっている。そのせいだろう、ラッシュアワーの駅のプラットホームで、かけそばを頬張るサラリーマンや、アンパンを口に入れ、牛乳で流し込む高校生が目立つようになった。体力づくりはいうに及ばず、智慧や性格をつくり、生命を託す食事をないがしろにする女性が多くなった証拠である。 こういった手合いは論外として、家事一般、仕事の面でも細やかな心配りがなくなりつつある。 「心配り」とは、心をあちこちへと配ること、心づかい、配慮の意だが、このような行き届いた神経がうすれつつあるのも、食事に由来する一面がないとはいえない」(平野雅章)

〜〜〜

「機械的」に作られた「食事」も、「手作り」の「食事」も、「味」の面では大きな差は無いかもしれません。

しかし、その「食事」を「食べる人」や、「作る人」の「心の温度」には、大きな差が生まれるはずです。

「機械的」に作られた「食事」には、「熱」はあっても「あたたかさ」はありません。

いま「冷凍食品」に「毒」が入っていた、ことが問題となっていますが、今回の「事件」をただ単に、「食の安全」の問題だけで済ませてしまってはなりません。

「食」とは=「生命」であり、「精神」であり、「未来」です。

「国民」たちは、今回の問題をきっかけに、「食」とは何なのか、「本当に大切なこと」は何なのか、をもう一度考え、

ごく僅かな「時間」を生み出す為に、「レンジ」で「チン」することが、「日本人」の「人生」を総合的に見た時に、プラスになるのか、マイナスになるのか、を真剣に考える必要があります。

「心が入った食事」がどれだけ「人間」の「心」と「身体」を豊かにするのか。大多数の「国民」たちはよくわかっているはずです。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

〔参考〕

日本の食文化・平野 雅章(著)

日本食物史 新版―食生活の歴史・樋口 清之(著)

banner.png
↑投票よろしくお願いします。
posted by スーパー原始人 at 08:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月23日

「商人道」が「日本」を救う

〜〜〜

「白木屋や越後屋はもちろん、一般の商家も家族である店員の病気に対しては終身、世話をしている。 店員の家族についても、当時は家族全員がかかえられているという意識だから同じである。だから、店員の一家に婚礼や葬式があると、番頭、手代はもちろん、全家族が総動員で手伝いにいく。 これが日本の商家の姿だった。(略)たとえば、越後屋の店員は、自分は越後屋のおかげで生活の心配をする必要がないと考えることが実際にできたからである。 そこで、きちんと働いていれば、自分も家族も安心して生きていけるのだ、という信頼を実感として持ち得たからである。

 それは、ちょうど藩主に対する家臣のようなもので、ただ、違う点は、藩主はずるくて、家臣からの給与を先借りする。したがって給与は下がっていく、だが、商家は絶対にそういうことをやらない。給与を上げることと生活保証はいつも完全に行なう。物価が上がると、主人が食べなくてもまず「いの一番」に米を与え、現物支給でやる。店員を飢えさせるようなことは絶対にしない。それは美談ではなく、もし、主家の人たちだけが食べて、店員が食べられないということになると、両者の相互信頼の基盤がいっぺんに崩れてしまうからである」(樋口清之)

〜〜〜

「地理」や、「環境」や、「国防」などの面の「背景」を考慮して「歴史」を眺めてみた時、「日本」の「江戸時代」以上に、多くの人たちに「幸福」を齎していた「社会」はありません。

「左巻き」たちが声を大にして言う「戦後日本は、戦前の過ちを反省し、平和で豊かな国になった」という言葉も、「歴史」を「偏見」や、「歪曲」なしで見たならば、「戦後日本は、一部の勝者だけが、獣の世界のように総獲りをすることによって、物質面では、日本史上最高に豊かになった」というのが真実です。

「戦後日本」が、「アメリカ」と「アメリカの操り人形である左巻きやエセ保守」たちの手によって追求した、「個の利益」というものは、その終着点が、「アメリカ」であれ、「チャイナ」であれ、「北欧諸国」であれ、「過剰な自由という苦しみの野生」の中に「国民」たちを「閉じ込め」、「不自由さが生み出す安心感」をも奪い去る形で、「一部の勝者」たちを除いた「大多数の国民」たちに、「物質面」だけではなく、「精神面」の「苦痛」までもを強いるものでしかないのです。

いま「日本」が進めている「二大政党制」も、「独裁制」も、「個のシステム」という意味で、「兄弟」であり、その内にある「裁判員制度」も、「弁護士増員」も、「人権擁護法案」も、「外人参政権付与」も、「個」と「個」の間に生まれる「争い」をやりやすくする為の「場」を提供するだけで、その先に待っているのは「日本全土の闘技場化」です。

本当に「国民」たちの「生活」を安定させる政治制度は、「自民党」もしくは「自民党に代わる長期安定政権」の「健全化」を行い、「徳川幕府化」させることによって生み出されるのです。「与党」と「野党」は「国家観(愛国)」を同じくした上で「御三家化」させ、その上で、「東国原知事」のように「愛国国家観」を持った「知事」が率いている「宮崎県」のような「都道府県」を数多く誕生させ、「多文化共生」ではなく、「単一文化選択性社会」を構築しなければなりません。

「多文化共生」を目指して、「国家」を「闘技場化」させてしまった「欧州各国」や、「マレーシア」などは既に、「単一化」へと向かって進路を変更しました。そんな中、「コリア」と「コリアの奴隷の日本人」たちは、「欧州」や、「マレーシア」などの動きとは全く逆の道を歩もうとしていますが、「文化摩擦」や、それに伴う「コスト増(無駄)」を抱え込んだ「社会」は、「安定」を確保できないだけではなく、「国際競争」にも敗れ去ってしまうことを「国民」たちは、よく理解しておいた方がいいでしょう。

「日本社会」がこれ以上、「外人」や、「外来文化」を受け入れ続けることは、非常に「危険」なことです。「日本社会」を本当に「安定」させる為には、これ以上の「外」の「流入」を防ぎ、「新しい和風」を作り上げ、「熟成」させるしかありません。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

〔参考〕

梅干と大福帳―いま見直される“日本的経営”の原点・樋口 清之(著)

商人道「江戸しぐさ」の知恵袋・越川 礼子(著)

banner.png
↑投票よろしくお願いします。
posted by スーパー原始人 at 06:11| Comment(1) | TrackBack(0) | 日本文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月09日

「憲法9条」よりも「鯨食文化」が世界を救う

「オーストラリア」で1年間に「駆除」されている「カンガルー」は何頭いるでしょうか?

この質問に答えられる人は、「日本人」だけではなく、「オーストラリア人」の中にも殆どいないのではないでしょうか。

「答え」は「700万頭」です。

「オーストラリア人」たちは「日本人」の「食べる為」の「捕鯨」に反対していながら、自分たちはたった1年間で「700万頭」もの「カンガルー」を「駆除」しているのです。

「オーストラリア人」たちが、「日本人」の「捕鯨」を非難していながら、自らは毎年「700万頭」もの「カンガルー」たちを「駆除」していることは驚きですが、それよりももっと驚くべきことは、「オーストラリア」の「カンガルー」たちが年間「700万頭」も「駆除」されていながら、「個体数」を増加させているという事実です。

いま現在「オーストラリア」に生息している「カンガルー」は、約「5700万頭」と言われています。「オーストラリア」の「人口」が約「2000万人」ですから、「オーストラリア」には「人間」の倍以上の「カンガルー」が生息していることになるのです。

そのような「オーストラリア」の「現状」を全く省みることなく、

「カンガルーは可愛いから駆除するべきではない」

「カンガルーを駆除している国には制裁を加えるべきだ」

というような主張を「オーストラリア以外の国」の人たちがして、それが実際に実施されたら「オーストラリア」はどうなってしまうのか?

「オーストラリア」の「緑」を「カンガルー」たちが食いつくし、食糧難によって「個体数」が「自然減」するまで「カンガルー」たちは増え続けるはずです。

その時、「人間」たちが生きていける「環境」は「オーストラリア」から姿を消しているでしょう。それが「自然」と言えば「自然」だと言えるかもしれません。けれどそれでは「人間」が生きていくことは出来ません。だから「カンガルー」たちを「駆除」しなくてはならない。

「オーストラリア人」の「カンガルー駆除」には「正当性」がある。ただ、そこには「人間」としての「優しさ」や、「愛情」を育むシステムは存在していませんが・・・。

視点を「陸」から「海」に向けてみる。そこには「カンガルー」以上に多くの「資源」を爆食している「鯨」たちがいる。「鯨」たちは「人間」の約「6倍」もの「水産資源」を1年間に食している。

どうすればいいのか?

「カンガルー」の「個体数増加」問題を抱えていながら、「鯨」の「個体数増加」問題の「本質」を理解できないような人たちが、主張している「オーストラリア方式」に未来はないでしょう。

「日本人」が「捕鯨」の必要性を訴え続けていくことは、「憲法9条を世界遺産に!」などと言うことの数億倍、数兆倍の重みがあることなのです。

「鯨」を食べることは「飢餓」や、「環境破壊」を抑制し、「世界」を救うのです。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

〔参考〕

クジラと日本人―食べてこそ共存できる人間と海の関係・小松 正之(著)

ゴーマニズム宣言 EXTRA〈1〉

banner.png
↑投票よろしくお願いします。
posted by スーパー原始人 at 22:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月02日

「オーストラリア」と「クジラステーキ」

先日、最近、店舗数を拡大している「ステーキ店」で食事をする機会がありました。その「ステーキ店」で使用している「肉」の産地の大半は「オーストラリア」なのですが、「食券」を購入しようと券売機に、お金を入れると、「商品」の中に「クジラステーキ」があるのを見つけました。

「オーストラリア」と「クジラ」

と言えば、少し前に「オーストラリア」の「政治家(屋)」が、

「日本の捕鯨船の監視に軍艦を用いるべきだ!」

という発言をしたことがありました。そのことを考えると、「オーストラリア産肉」と「クジラ肉」が並んで販売されていることは痛快なことですが、この「オーストラリア産肉」と「クジラ肉」の関係にこそ、「反捕鯨運動」の本質であると言っていいでしょう。

最近の「反捕鯨運動」は、内政問題に対する「ガス抜き」の面も見られていますが、それでも一番大きな問題は、「食品生産・輸出」や、選挙における「組織票」の確保を巡ったものです。

「ステーキ店(専門店)」で、「牛肉・豚肉・鶏肉」と「クジラ肉」が同時に並んでいるということは、「人間」にとってこれらの「肉」が同じ「食ジャンル」に属していることを意味します。

そのことが「日本人」だけではなく、「世界中の人々」たちの間にも広まってしまったらどうなってしまうのか?

「牛肉・豚肉・鶏肉」を食べるよりも、「クジラ肉」を食べたほうが、「環境面」でも「地球」と「人」に優しいという事実と、「世界」で巻き起こっている「日本食ブーム」のことを考えれば、「クジラ食べる習慣」は、「戦後日本」で「アメリカ」が行った「米」から「小麦」への「主食」の転換のように「強制」を伴わなくても、一部の地域には爆発的に拡大する可能性を秘めています。

「捕鯨問題」は、「個人」や、特定の「国家」だけの視点で見るのではなく、「地球規模」の視点で見る必要があります。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

[参考]

クジラと日本人―食べてこそ共存できる人間と海の関係

banner.png
↑投票よろしくお願いします。
posted by スーパー原始人 at 12:40| Comment(8) | TrackBack(1) | 日本文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月04日

「日本」が、「チャイナ」の圧力に屈すれば「世界」が不幸になる

〜〜〜
(台湾の声より)

【レポート】3日、李登輝先生立石寺参観 中国が訪問先に圧力

本3日、李登輝先生は山形県山寺の立石寺(りっしゃくじ)に午後到着。山門付近では、約五十人の人々、観光客、土産店店員らが日の丸、緑の台湾旗を振って歓迎すると、にこやかな表情で歓迎を受けた。参拝ののち、芭蕉の句碑を参観した。

記者:昨日は海、今日は山を見てどうだったか?

李登輝先生:
山の緑のみずみずしさに驚いた。日本の森林管理はすばらしい。台湾も見習うべき。

その後、仙台市に戻り、日本李登輝友の会宮城県支部などによる歓迎を受けた。

本誌特派員によれば、お疲れの様子も見えたということ。この旅がもつ意味への李登輝先生の思いが伝わってくる。

この李登輝先生の奥の細道紀行に、中国からの圧力がかかている。訪問予定の寺に対して、李登輝先生を管主が出迎えたりといった「特別扱い」をすれば、今後の中国との仏教交流に影響が出る、と圧力をかけてきている。

〜〜〜

「日本」には「日本の事情」があるように、「チャイナ」には「チャイナの事情」がある。

そのことはよくわかります。

「でもちょっと待ってもらいたい」。「日本」は「日本」であって、「チャイナ」ではないのです。

「正式な手続き」を経て「日本」へ入国し、滞在している「李登輝」さんが、「日本の法律」の範囲内でどのような行動を取ろうがそれを侵害する権利は誰にもないのです(もちろんチャイナ共産党や、スーダン政府のように虐殺に関与しているような人物なら話は別ですが)。

昨日の記事にも書きましたが、そのような「郷に入っては・・・」という感覚を殆ど持ち合わせていないのが、大半の「外国人(特にチャイナ人)」です。

人類の「悲劇史」は、そのような「郷に入っては・・・」=「他人を尊重し、思いやる気持ち」=「個人としてではなく、人間として生きる気持ち」の欠如が齎してきたものばかりです。

そんな中、「李登輝」さんは、「西洋文化」にも、「東洋文化」にも「尊敬・尊重」の気持ちを持てる、これからの「人類」が見習うべき存在です。

「日本」には、「李登輝」さんの存在(影響力)を消し去ろうとしている勢力が存在しています。

彼らの大半は、同時に「日本」の存在をも消そうとしている人たちです。

「侵略」、「虐殺」、「抹消」。

人類の「悲劇史」は彼らのような人たちが作ってきたのです。

欧州や、南米の文化を悉く「抹殺」し続けた「キリスト教徒」たちや、「仏像」を破壊した「イスラム教徒」たち、そして「廃仏」を行った「日本人」たちと、彼らの「精神性」は全く同じなのです。

そんな人たちが言う「多文化共生」、「世界平和」など馬鹿らしいものでしかありません。

本当に「世界」に多くの「文化」を残し、「平和」な世の中を実現したいのならば、彼らの主張(思想)に反して、「日本人」は「日本(日本文化)」を守らなければならない。

「李登輝」さんはそのようなメッセージを発し続けている人です。

「守る為の力」、「守ろうとする意思」は、「日本」だけではなく、「世界」を救うのです。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

[参考]

banner.png
↑投票よろしくお願いします。
posted by スーパー原始人 at 15:51| Comment(6) | TrackBack(20) | 日本文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月31日

「日本側」の視点を持っていなければ「国際問題」を解決できるわけが無い

「日本人はなぜ投降して来ないんだ!?」

「大東亜戦争」において、圧倒的に、絶望的に不利な状況に陥っても「日本人」の多くは「敵軍」に投降しませんでした。

そのことを「左巻き」や、「欧米人」や、「特定アジア人」たちは、「戦陣訓のせいだ!」、「強制があったからだ!」と、「思い込み」たがっています。

彼らには理解できない。

「日本人が最期まで戦った理由」を。

彼らには理解できない。

「日本人が最期まで友と共にいた理由」を。

彼らには理解できない。

「日本人が愛するものを守る為に「あっさり」と命を投げ出した理由」を。

彼らと、「日本人」の違いは、

「絆」、「繋がり」、「信頼」、「愛情」、「友情」、「感謝」、「思いやり」。

彼らや、「戦後日本人」の中には「想像」出来ない人たちもいるでしょうが、「戦前日本人」の、「絆」、「信頼」、「愛情」、「友情」、「感謝」、「思いやり」、「繋がり」の強さは、彼らや、戦後日本人と比べると「一桁」違っていました。

全てが「自分」=「個人」中心に回っている彼らにはわからない。

「無我」、「無私」、「滅私」、「奉公」、「共存」、「共同」、「共生」の心を。

「歴史」とは「個人」の所有物ではありません。

「命」とは「個人」の所有物ではありません。

「自然」とは「個人」の所有物ではありません。

全ては、数百万、数千万、数億、数兆の「繋がり」の中にある。

だから全てに「価値」が生れる。

「日本人」はずっとそう考えて来た。

「自然」を愛し、「動物たち」を愛し、「ご先祖様たち」を愛し、「伝統や、文化」を愛し、「神々」を愛し、「同胞たち」を愛してきた「日本人」。

「日本人」の「愛情」は、「他者を立て」、「尊重」、「尊敬」することによって生れる。

「日本人」は「他者を立てる」ことによって「一部」となって生きてきた。

そのような「日本人」の生き方は、彼らの目には「自己喪失」と映るのかもしれません。

しかし、それは違います。

「日本人」は「一部」になることによって「全て」になるのです。

「家族」、「会社」、「国」、「自然」、「宇宙」。

これらの「存在」と「一つ」になることは、「支配」されることでも、「奴隷」になることでもありません。

なぜなら「日本人」にとって、「全て」は「自分」なのですから。

そんなことを「個人」として「弧立」してしか生きられない彼らはわかっていないのです。

「個人」の「愛」の大きさなどたかが知れています。

「個人」の「愛」など本当に、本当に小さなものです。

「個人」として生きることは、「悲しく」、「寂しい」ことです。

だから「個人」は、「暴力」や、「依存」や、「詐欺」に走り、「精神」を患ってしまう。

けれど「人間」として生きてきた「日本人」は違いました。

「個」を捨てて、抑え、「人間」として「一部」になり、「全て」と「繋がれ」ば、

「愛」は無限に広がり、「悲しみ」や、「苦しみ」は半減する。

だから「日本人」は、「不幸」なことがあっても「幸福感」を失うことがなかったのです。

そのような視点をもって、「世の中」を眺めていくことが大切です。

「歴史」、「慰霊」、「文化」、「伝統」、「会社」、「同胞」、「国」、「家族」・・・。

彼らと、「日本人」が見ているものは全く違うのですから。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

*本日の注目記事。

〜〜〜
(読売新聞より)

雇用改善でホームレス大幅減少…厚労省、全国調査

公園などで野宿するホームレスに関する厚生労働省の全国調査の概要が31日、明らかになった。

 今年1月現在で、国内のホームレスの人数は1万8600人前後で、2003年の調査より約6700人(26%)減った。

 大都市での減少が目立っており、景気回復に伴う雇用情勢の改善が影響したと見られる。厚労省は調査を基に、08年度からより効果的なホームレス支援策を実施するため、ホームレス自立支援特別措置法改正案を08年の通常国会に提出する方針だ。

 全国調査は今回が2回目。03年1、2月の調査でのホームレスは581市区町村で計2万5296人に上った。ホームレスとなった理由(複数回答)は「仕事が減った」「倒産・失業」が各3割を超え、直前まで正社員だった人が4割に上るなど、安定した生活が一変して野宿生活を強いられる例が少なくなかった。


(産経新聞より)

米国のホームレス75万人 日本の30倍

米国で公園や道路などで寝泊まりしている路上生活者(ホームレス)は、推計で75万4000人に上ることが、米住宅都市開発省が行った初の全米規模の調査でこのほど明らかになった。

 厚生労働省が(平成15)2003年に実施した調査によると、人口が米国の半分以下の日本のホームレスは約2万5300人。統計の取り方にもよるため単純比較はできないが、米国の数は日本の約30倍に相当することになる。

 住宅都市開発省は、施設の拡充や住宅確保支援のほか、ホームレスの多くが患う精神障害やアルコール・麻薬中毒の治療など対策を強化する必要性を強調。08会計年度(07年10月〜08年9月)予算で、支援事業に前年より約2億ドル多い16億ドル(約1900億円)を議会に要請している。

 一部の保護施設の利用者を対象にした実態調査では、利用者の45%が黒人で、年齢別では17歳以下が23%を占めた。また、利用した成人のうち、25%が身体に障害を抱えていた。

 調査は05年1月、全米約3800の市や郡で実施。保護施設を利用した人や路上で確認された人の数などを基に推計、今年2月末に発表した。

〜〜〜

TBS、朝日新聞、民主党、共産党、社民党、プロ市民、左巻き等々。「反対」することしか能が無い「エゴイスト(個人)」の「嘘」に騙されている限り「日本再生」はありません。

[参考]

日本人よ、自分の国に誇りを持ちなさい―世界モデルとしての日本論・黄 文雄(著)

banner.png
↑投票よろしくお願いします。
posted by スーパー原始人 at 16:35| Comment(2) | TrackBack(0) | 日本文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月28日

「日本人のやさしさ」が他人を傷付け、対立を深めることもある

〜〜〜

「「他人に迷惑を掛けない」という日本人が本来持っていた社会ルールも、わたしの考え方や性格にぴったり合っています。わたしも他人には迷惑を掛けたくないし、他人から迷惑を掛けられたくもありません。

「最近の若い人たちは、他人の迷惑になることを平気でしている。かつての日本人の美徳もだんだんに失われてきた。このまま進んでいったら、日本はどうなるんだろう?」

 そんなふうに嘆くお年寄りもいますが、そのルールと美徳は今でもまだちゃんと生きていると思います。他人に迷惑を掛けても平気でいるのは、ごく一部にすぎません。基本的には、日本人の多くは自分を律して生きていると思います」(ヒュー・ブラウン)

〜〜〜

昨日、同僚の「チャイナ人女性」にこのようなことを言われました。

「最近の日本は殺人事件ばかりでやばいよ」

彼女の言っていることは、「殺人」だけではなく、「犯罪全体」で考えれば、確かにその通りなのですが、「殺人」や、「少年犯罪」などを見ると、現在よりも、「昭和中期」の方が遥かに問題でした。

その「チャイナ人女性」は、「チャイナ」よりも「日本」の治安の方が悪い、と思っているのですが、実際の両国の治安の現状を見たならば、「日本」よりも「チャイナ」の治安の方が悪い、わけです。

彼女はなぜそのような「錯覚」を受けてしまったのか。

「ヒュー・ブラウン」さんは、

>他人に迷惑を掛けても平気でいるのは、ごく一部にすぎません。基本的には、日本人の多くは自分を律して生きていると思います。

と言っていますし、夜の繁華街などを見ても、女性が一人でも歩けるほどに「日本の治安」は、「他国の治安」と比べれば遥かにましなものです。

それなのに「日本人」の少なくは無い人たちが、「チャイナ人女性」と同じように、「日本はこのままでは直ぐに破滅してしまう」と思い込んでいます。

「過剰な心配性を患っている戦後日本人」

「教育基本法改悪反対!」、「日本はアジアから孤立してしまう!」、「日の丸・君が代で軍国主義が復活する!」、「日本はファシズム国家に戻ってしまった!」、「コリアンたちに対する差別と弾圧を止めろ!」

自分は、そのような主張をしている人たちの多くは「精神」を患っている人たちであり、何らかの治療をする必要があると思っていますが、彼らのような「過剰な心配性」を患っている人たちは、「日本の歴史」から見ると、本当に例外的な存在で、「本来の日本人」は、非常に「楽天的」で、「明るく」、「朗らか」な性格を有している人たちでした。

それが180度逆の性格に変わり始めてしまっている理由は、

「腐敗したマスコミ(教育)」と、「日本人の優しさに付け入る悪人」たちの影響だと思います。

「マスコミ」の報道を見ていると、本当に「こいつら馬鹿なんじゃないか」というくらいに、「人間の負の部分」、「他人に対する誹謗中傷」ばかりを報道しています。それは「視聴者」がそのような「非日常」を求めている部分もありますが、それでも「マスコミ」の「負の報道」は行き過ぎています。その象徴が、毎日「暴動」が起こったり、「日本」よりも「犯罪」が多発している「チャイナ」から来た女性の「チャイナよりも日本のほうがやばい」という「錯覚」に現れている。

では、そのような「報道」姿勢や、それを受け入れてしまう「日本国民」たちの姿勢はどこから来るのか、というと、それは「日本人のやさしさ」が大きな要因となっているでしょう。

「戦前は食料が無くて多くの人たちが飢え苦しんでいた」

「戦前の日本人は人類史上最悪の悪行を積み重ねていた」

「江戸時代の農民たちは搾取され続けてきた」

「格差が広がって給食費も払えない親たちが物凄い勢いで増えている」

「少年犯罪が大増加している」

「いじめが大増加している」

「戦前の日本人はコリア人女性20万人を強制的に連行して性奴隷にした」

これらの話は「一部の話」もしくは「虚偽情報」を「全体」に結び付けた「真っ赤な嘘」ばかりです。けれど「日本人」はそのような「真っ赤な嘘」を受け入れている、自分はそこに「日本人のやさしさ」があると思っています。

最近、問題となっている「捏造・従軍慰安婦」の話も、「一部」には「コリア人を中心とした業者」に騙されたり、「軍人」に暴行を受けた人たちもいたでしょうが、大多数の「売春婦(慰安婦)」は、「世界で最も優遇された売春婦(当時)」であったわけです。

それなのに「捏造・従軍慰安婦」問題で、「謝罪」や、「賠償」をする必要があると思っている人たちは、「一部ではあっても苦しみや、悲しみのどん底にあった人たちがいたのだから、その人たちのことを考えると、彼女たちの言い分を聞いてあげるべきだ」と考えているのでしょう(実際に当時の「真実」を知っている人たちの「体験談」などを読むと、「売春婦」や、「軍人」や、「飢餓」の問題でそのように考えている人が本当に多いことがよくわかります)。

そのような「日本人」の姿を見ると、「自虐」や、「売国」の大半は、「日本人のやさしさ」が生み出していると言えます(「やさしさ」が生み出す「自虐」は他国にも見られますが、通常はそれ以上の「自尊」が存在しています)。

「河野洋平」などはたぶんその象徴でしょう。彼などはその「政治人生」や、「支持者」たちの話などを聞くと、本当に「やさしい」人であることがよくわかります。

そのような人たちが作ってきたのが、「日本社会」の「平和」や、「秩序」や、「安定」でした。

「日本人のやさしさ」が「世界で最も平和的な文明である日本文明」を築き上げてきた。

だから「日本人」にとって「やさしさ」は「国宝」であると言えます。

ただし、そのような「常識」が通じたのは、「日本」が「島」であった時代までです。

「国際化」が進み、情報も含めて、「人々」の「出入国」が容易になったいま、「日本人のやさしさ」は、「やさしさを持っていない悪人」たちから見れば、自らが「悪行」を遂行する為の絶好のカモなのです。

「自虐派」や、「売国奴」たちの大半は、「やさしさ」故に・・・という人たちがでしょう。しかし、その中には、「生粋の極悪人」が紛れ込んでいますし、「外国」には「やさしさを持っていない悪人」たちが溢れているのです。

今回の「捏造・従軍慰安婦」問題をきっかけに、「国民」たちは、「やさしさが他人を傷付け、対立を深めてしまうこともあるのだ」、ということを学んだ方がいいでしょう。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

[参考]

なぜ、人を殺してはいけないのですか・ヒュー ブラウン(著)

日韓「歴史問題」の真実 「朝鮮人強制連行」「慰安婦問題」を捏造したのは誰か・西岡 力(著)

banner.png
↑投票よろしくお願いします。
posted by スーパー原始人 at 18:24| Comment(5) | TrackBack(0) | 日本文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月23日

「世界遺産」にふさわしいのは「憲法九条」という「エゴイズム」ではなく、「日本人の公意識」です

〜〜〜
(スポーツニッポンより)

小泉氏 エタノール委員会共同代表に

 ガソリンの代替燃料としてバイオ燃料エタノールの普及を目指す団体「米州エタノール委員会」(米フロリダ州マイアミ)が、小泉純一郎前首相に共同代表への就任を要請、ブラジル農牧省幹部は22日、小泉氏が受諾したことを明らかにした。

 同委員会は米、ブラジル両国政府の後押しで昨年12月に結成され、ブッシュ米大統領の弟ジェブ・ブッシュ同州前知事とロドリゲス・ブラジル前農相、モレノ米州開発銀行総裁が共同代表。近い将来、大量のエタノール消費が見込まれる日本からも参加してほしいとして、委員会が前首相に就任を求めたという。小泉氏は2004年にブラジルを訪問、サンパウロ郊外のエタノール製造工場を見学した。

 米国はエタノール生産量が世界一で、エタノールが約30年前から自動車燃料として普及しているブラジルは生産量が2位、輸出量が1位。両国は今月、エタノールの普及を目指して協力することで合意した。

〜〜〜

「空気読みの神様」

以前、「塩川正十郎」さんは、「小泉総理は、総理大臣を退任した後は、国際貢献に尽力してもらいたい」と言っていましたが、いまこの時期に「小泉元総理」が「新エネルギー」問題で、「アメリカ」と手を携えたことは「空気読みの神様・小泉純一郎」の「神技炸裂」といった感じです。

「第一次イラク戦争」、「アフガン」、「対テロ戦争」、「中央アジア」、「第二次イラク」、「原油価格上昇政策」、「朝鮮」、「イラン」、とここ最近の「アメリカ」が「迷走(暴走)」しているのは、「アメリカ国内」と、「チャイナ」や、「ロシア」や、「ブラジル」、「インド」などを中心とする「世界的なエネルギー不足」、「エネルギー戦争」の為でした。

「日本の左巻き」は、「戦争反対!」、「憲法九条を守れ!」と念仏のように唱えていれば、「世界平和」が実現できてしまうと思い込んでいる「真正馬鹿」であり、最低の「怠け者」ですが、我々人類が、「真の世界平和」を本当に実現したいのならば、その実現の鍵は「エネルギー問題」を解決できるかどうか、にかかっています。

「エネルギー問題」も含めて、いま「世界平和」の実現を阻んでいるのは「個人」の「エゴ」です。

「アメリカ」も、「チャイナ」も、「ロシア」も、「独裁者」も、「一国の繁栄だけ」を求め、

「原理主義者」や、「テロリスト」たちは、「自らの信仰だけ」を求め、

「企業」は、「自社の利益だけ」を求めている。

彼らは、「石油」や、「天然ガス」や、「水」や、「空気」や、「森」や、「オゾン層」や、「国民」たちなどは、「自分の物」である、と考えている。

そのような「個人」と「個人」は絶対に「友好」や、「秩序」や、「安定」を築き上げることは出来ません(出来るのは同盟関係だけ)。

だから「世界」に「争い」や、「対立」が溢れかえってしまう。

そんな「不幸な世界」を救えるのは、「総合的(文化、経済、歴史など)」に見て「日本」しかありません。

〜〜〜

「人間は、集団があってはじめて生きることのできる動物である。 人間が、個人意識を持って、個人だけに切り離されると、いかにも自由であり、勝手に何でもできそうに見える。古代社会はもちろん、今日の社会でも、それが可能のように思えるが、実は古代でも現代でも同じく、集団から切り離された個人が、一度、悲運に遭遇した場合、あるいは転落の道に入った場合、それを食いとめるものは何もないわけだから、完全に脱落するだけである。

いまでも家をはじめ一切の集団を否定して、孤独であることをむしろ悟道の世界に入ったように誇って暮らしている人も稀にはある。しかし、そんな人の本音はやはり毎日が不安で寂しいにちがいない。それに耐えている努力が誇りだといえばいえるが、しかし、一種の人間性否定の愚考だというほかない。そのうえ、集団から離れているつもりでも、本人の目には見えず、心にも感じない、社会組織の恩恵のあることに強いて目をつぶっているエゴイストぶりはけっして褒めたことではない。

 それを防ぐためには、どうすればよいか、という知恵が、家族集団という発想を生んだ。そして、家族集団を維持していくためには、まず家族集団の意志を認めることが前提となる。つまり家族集団の意志を個人意識に先立って認めるわけで、そういう意味で、個人はないのである。その場合が、すなわち「無私」である。個人は「無私」という個人意識を持つことで集団に属して、自らの転落を防いだのである。
 
 では、個人に優先する家族集団の意志とは何か。それは多人数の個人の意志が集約されたものである。 家は、家を構成する個人個人の幸せを守るためにある。だから本来は、個人の幸せの期待を裏切るものではないのである。つまりみんなの幸せの最大公約数としてあるのだ」(樋口清之)

〜〜〜

全ての「国民」に「愛国心」が無ければ、「国家」を「私物化」して「個家」を作ろうとする「独裁者」が誕生してしまう。

「自然愛」や、「動物愛」が無ければ、「環境破壊」や、「食糧危機」や、「災害被害」が広がってしまう。

「家族愛」や、「人間愛」や、「歴史愛」や、「伝統愛」が無ければ、「社会」は「破壊主義者」たちで溢れかえってしまう。

はじめに「公」ありき。

その意識をもう一度、「国際常識」にしない限り、「世界平和」の実現は永遠に無いのです。

「公よりも個の方が大切だ!」

そのような「エゴ」と「暴力」はもういりません。

>個人に優先する家族集団の意志とは何か。それは多人数の個人の意志が集約されたものである。 家は、家を構成する個人個人の幸せを守るためにある。だから本来は、個人の幸せの期待を裏切るものではないのである。つまりみんなの幸せの最大公約数としてあるのだ。(樋口清之)

自分が「安倍総理」や、「石原都知事」を支持するのは、彼らが「真の世界平和」を実現する為には何が必要なのか、ということをわかっている人たちだからです。

「安倍総理」や、「石原都知事」に反対している人たちと同じことを、全ての国民たちが行ったら「社会」はどうなるのか、そのことを考えれば、「明るい未来」を作れるのが誰なのか、は明白です。

「公意識」が「世界」に「明るい未来」を齎すのです。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

[参考]

完本 梅干と日本刀―日本人の知恵と独創の歴史・樋口 清之(著)

banner.png
↑投票よろしくお願いします。


posted by スーパー原始人 at 16:52| Comment(4) | TrackBack(0) | 日本文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月03日

「やすらかに眠って下さい、過ちは繰り返しませぬから」の精神

3月1日に配信された「縄文通信」さんが「広島」の「原爆碑」に書かれている「文言」についての記事を書いています。

〜〜〜
(縄文通信より)

 主語不在の「原爆碑文」問答
                     中村 忠之

今回は趣向を変えて、≪ WEB 熱線 第825号 ≫(02/14)の<読者の広場>欄に掲載された「広島原爆碑」に絡む問答に、勝手に割り込んだ一連のやりとりをお伝えしたい。(なお、前半の直接関係のない部分は割愛させていただいた)
 
       *        *       *  

  <WEB 熱線>読者の広場2007/02/14 より

┌──────────「通りすがりのブサヨさん」男性gosaku様、 OJIN 様、ちょっと失礼いたします。(前略)

藤岡さんという偉い先生が書いた本の中で、広島慰霊碑の「安らかに眠ってください、過ちは繰り返しませんから」の碑文に言及し「過ち」を「日本による侵略」ととらえていましたが、本当に「過ち」とはそういう意味なのでしょうか。

私は「核兵器が使われること」が「過ち」だとしか読めないのっですが、私の考は間違ってるのでしょうか?ーーーご教示いただければ幸いです。

┌──────────「(^^) OJIN です(^^)」

どの記事に対するご意見なのかと探してみましたが、gosakuさんと野太郎さんと OJIN という組み合わせになりますと、元記事はgosakuさんのということになると思うんですが、gosakuさんの記事は何しろ長大で、さらにコメントや感想も膨大で、特定できておりません。    (中略)

ところで、「安らかに眠ってください、過ちは繰り返しませんから」には、なるほど!今までは「過ちは」は「(侵略)戦争は」という解釈で頭が固まっていましたが、碑文のある施設の性格を考えると「核兵器を落とされるような事態」・・・とも読めるんですね〜。もっと頭に柔軟性をもたせねば――――。

      *      *      *┃

☆ 主語不在の碑文 ―2007/02/21 by 縄文塾 中村忠之

先週水曜日号の<WEB 熱線>で、広島平和記念公園にある慰霊碑の文言について意見が交わされていました。被爆者の一人として、広島の話題となると黙ってはおれません。厚かましいことながらちょっとばかり割り込まして下さい。

 (以下「通りすがりのブサヨさん」および OJIN さんの文章引用分を省略します。 中村)

 ちょうど2月14日、広島の平和記念公園で外人相手の英語ボランティアをしている旧友(旧制中学同期)が、『原爆と平和』をテーマに研究しているという、有名な東京のH大学院生N君(社会学研究・地球社会学研究を専攻)に、いろいろ話を聞かせてやってくれといって連れてきた。

 「原爆所有」容認論をぶちかねない「硬派(?)の」中村さんでは、少しばかりお門違いではないかと思っていたが、やはりこの話が出てきたーーー。

『やすらかに眠って下さい、過ちは繰り返しませぬから』―――

この碑文は確か広大の偉い先生の言葉らしいが、いまでも時に応じて(この<WEB 熱線>でのように)「一体誰が過ちを繰り返さないのか?」について繰り返し論議されている。

ーーー当然その話になった。

旧友曰く、「実は、通訳していていつもその部分で、誰が?(Who?)と質問されるのだ」と言っていた。しかたなく彼が答えるのは、「我々(We)」だと答えているのだ言っていた。

彼が言う「我々」とは「全世界の人」だという意味である。すると今度は「何故?(Why?)」とくるそうで、うまく説明できずに困っていると嘆いていた。 ーーー考えようでは罪な碑文である。

時あたかも別の知人が、彼のブログで、カナダのモントリオール大学で日本語教育に従事している金谷武洋先生の『主語を抹殺した男:評伝三上章』という本を紹介しており、早速読んだばかりだったので、碑文の意味を伝えることに苦労した気持ちがよくわかった。

http://chinachips.fc2web.com/tiny/jp_top.html

全く知らなかったのだが、実はこの三上先生、広島出身だったそうで(碑文の作者もだが)無知さ加減に赤面するばかりであったーー。

金谷先生が学生相手に日本語を教えるときに悩んだのは、「ジュ・テーム」とか「アイ・ラヴ・ユー」が、そのまま日本語に訳せない、訳すと、まさに極めつきの「悪文」になるし、第一日本人は、誰も、事に及んでこんな言葉を使わない。ーーー悩んだ彼に日本の親友が送ってくれたのが、この三上章の画期的な「(主語は不要という)日本語文法書」だったのだという。

それ以降、金谷先生の悩みも氷解して、三上文法の紹介と普及に努力しており、その一環がこの本に凝縮されているのだが、金谷先生が同書内で慨嘆されるのは、――――日本の国語学会の閉鎖性で、戦後の英語教育からの誤った遺産を後生大事に墨守して、日本語にも「主語+述語+動詞」という教育を(すでに破綻したにも拘わらず)依然として行い続けるという頑迷な教育者と教育行政に、痛切な批判を投げかけている。

原爆記念碑の碑文から大分逸れたが、ヒロシマの「主語不在の碑文」は、ただ主語不在ですまされる問題ではなく、わざわざ韜晦(とうかい)し、曖昧にし、結論から逃避した卑怯な文だということもできる。

―― 追記:

ご存じかどうか、原爆被爆者には「原爆被害者手帳」が支給され、これがあると(社会保険・健康保険の払い込みが必要だが)治療費や入院・手術費の負担額がなくなり無料となるありがたい制度がある。

加えて、特定の病気には「健康手当」が支給される上、さらに「原爆症患者」に認定されると、毎月そこそこの補助金が支給されるのだが、病気と原爆の因果関係が不明で、最近その支給を巡って裁判沙汰になっていることをご存じの方も多いだろう。

私の考えは、たまたま広島で被爆したのだが、アメリカの無差別爆撃で、広島以上の死傷者を出した東京・大阪を始め、無数の被害者がいる中で、広島・長崎だけが特別の恩恵を受けているではないか。それを今更国や広島市を相手に裁判沙汰にするのは、強
く言えば「許せぬ」、柔らかく言えば「いかがなものか」と言いたい。

原爆症だったら、もうすでに死んでしまっていてもおかしくない。もし裁判に勝って支給されたら、それなく死んでいった人たちがいる事からみても、まさに不公平ではないか。

もし、どうしても裁判に持ち込みたいのなら、相手は当然アメリカであって然るべきである。――――戦後の政府や広島市には一切責任など無い。

こうした事件は、碑文にはっきり「アメリカは過ちを繰り返すな!」と書いていなかったためではないか。

    *      *      *

 <WEB 熱線 第829号 >(02/23)
 読者の広場より 
________「北村真一さん」男性@四十代@会社員@福島

 いつも楽しく拝読させて頂いております。今回は、私も意見を言いたいと思い投稿させて頂きました。

「安らかに眠ってください、過ちは繰り返しませんから」についてですが、過ちは「核兵器を使用した事」についてだと思っていました。人それぞれ捉え方が違うようです。

 私が思うに、わざと主語不在の文にしたのではないかと思われます。それは、読んだ方が自分で考え反省する、日本人的発想(?)からだと思われます。

 仕事上、外国の方とのお付き合いもありますが、当然彼らには伝わりません。殆どは自分に有利な方向で解釈します。ただ、現代でもこの日本人的発想は無くしたくないと思っております。

___________
 (OJINさんから、北村真一さんの投稿にコメントして下さいという依頼に応えて、
___________「縄文塾 中村忠之さんから」

    (前 略>

 この碑文については、以前よりあれこれ論議されていますが、作文された先生は故人となっていらっしゃるせいか外野席での侃々諤々(かんかんがくがく)当然本人抜きですので真相は藪の中で終わっています。

 私個人的に作者の心根を忖度(そんたく)すれば、__おっしゃるように他国では決して通用しないでしょうが__おそらく日本を含めて、この戦争を行った(広く第二次世界大戦の)当事国、或いは「全世界の人たち」ではないかと思っています。

 実は今もそうですが、広島は、あれこれ問答無用という「絶対的平和論者」のメッカみたいな位置づけですし、平和学習の総本山です。この問題ですが、できれば日本中でアンケートを採ってみれば面白いのでは、と、バカなことを考えています。

 竹島・尖閣・北方領土問題、それに拉致問題の長年放棄など、先方に非があってもそれをはっきりと言えない日本の、日本人の有り様をみれば、「日本の常識 世界の非常識」、八方丸く収まることを本気で考えるところにおのずと答えが見えてきます。私はこれを「弥生式発想」と呼んでいます。

さて、お答えになったかどうか疑問ですが。

http://joumon-juku.com

〜〜〜

自分は、「原爆碑」に書かれている、

やすらかに眠って下さい、過ちは繰り返しませぬから

という文言は、今後の「日本」と「世界」の「平和」を考える上で、「左巻き」たちが「GOD」としてカルト的に祭り上げている、「憲法九条」よりも遥かに重要なものだと思っています。

「原爆碑」の「文言」については、「日本人」だけではなく、「外国人」からも、

「過ちを繰り返しませぬから」の「主語」は誰なのだ、という声が上がり、「日本人」の中からは、

「過ちを繰り返さない、と言うべきなのは日本人ではなく、アメリカ人だろう!」

という怒りの声も聞こえてきます。

〜〜〜
(国民新聞より)

三好誠氏 戦後始めて、広島の原爆碑撤去を訴える

 広島市平和公園にある「あやまちは繰り返しません」の原爆碑に、戦後初めて撤去運動が起こった。

 『はめられた真珠湾攻撃』、

 『この国で見た北朝鮮』

 など多くの著作がある三好誠氏が、「あやまち」とは日本ではなく、原爆投下した連合国の方として、原爆碑の撤去を求めて、平和公園で8月1日から抗議の断食・座り込みを行う。

 この碑文の作者は広島大英文学の雑賀教授。

三好氏の行動に共感を示す名越二荒之助氏は

 「あの碑文をホワイトハウス前に移設してはどうか」

 などの応援エールを送っている。

〜〜〜

「原爆碑」の「文言」について論じる時のポイントは、作者である「雑賀教授」にあります。

>この碑文については、以前よりあれこれ論議されていますが、作文された先生は故人となっていらっしゃるせいか外野席での侃々諤々(かんかんがくがく)当然本人抜きですので真相は藪の中で終わっています。(縄文通信より)

「雑賀教授」がご存命であったならば、直接、その意を聞くのが一番なのですが、残念ながら「雑賀教授」は既にお亡くなりになられてしまっています。

そのことが「右」や、「左」や、「国籍」に関係なく、多くの人たちを巻き込んで、「論争」や、時として「対立」を引き起こしているわけですが、いつまでも「原爆碑」の「文言」を巡って、「未来の住人」たちが「対立」を続けることは、「原爆」で亡くなった方たちも喜ばないでしょう。

ですから多少「強引」なやり方であっても、「原爆碑論争」は終焉させてしまって、これからの「日本」のあり方を決定付ける、きっかけを作ってしまった方がいいと思います。

「原爆碑」の「文言」について、「国民」たちが、「雑賀教授」から直接、その意を聞く機会は永遠に失われてしまいましたが、幸いなことに、「雑賀教授から直接、その意を聞いた人」からの「手紙」を「中條高徳」さんが「魂を抜かれた日本人」の中に掲載しています。

〜〜〜
(魂を抜かれた日本人より)

「先生の批判された碑文は私の恩師雑賀先生が書かれたものです。私は雑賀先生によく可愛がられました。氏は英文学の先生で英国の桂冠詩人ブランデン氏とも大変親しい仲でした。一方、国学者風な毅然としたところもお持ちでした。私も先生に面と向かってこの碑文を批判しました。碑の「過り」とするのはerror(誤り)ではなくevil(悪)の意味なのです。

「この碑文は、百年たたなければ世界の人々が円いテーブルを囲んで一緒に話し合えないだろうね」と先生は碑文という制限された枠内に一言で表現するにはこの言葉しかない」との信念を貫かれておりました


〜〜〜

この「お弟子」さんの話が「真実」であるのかはわかりません。しかし、自分は、この「手紙」が仮に「嘘」であったとしても、手紙に書かれている「雑賀教授」の言葉を、「国民」たちは「事実」であると決めつけ(思い込み)、「原爆碑」の「文言」を今後の「日本人」の生き方を決定する「精神の柱」の一つにするべきだと考えます。

「「主語」ではなく「述語」を大切にする」

それが「本来」の「日本人」の姿でした。

〜〜〜

「「死ねば神になる」という伝統的感覚や仏教信仰からくる「衆生悉皆成仏」「山川草木悉皆成仏」の死生観から、日本では敵も味方も死ねばみな神だとして信仰対象になる。 これは敵であれ、すべての悪しき過去も「水に流す」という文化の表れでもある。  また戦犯であろうと何であろうと国家に殉じた者は護国の英霊として合祀するのが靖国神社だ。 まさに日本人の死生観の精華といえる。  戦前、日本軍は靖国神社の心で、敵国の戦死者に対しても、その国、護国の英霊であるとして戦闘の合間に慰霊、供養したのである。 敵でも死後は丁重に弔うというのが日本人だ。 世界では今日でも民族間、宗教間で憎悪に満ちた対立抗争が決して後を絶たない。そうであるなら日本人の死生観、その象徴である靖国神社こそ、世界人類にとっては大切な遺産なのではないだろうか」(黄文雄)



(罪を憎んで人を憎まず)こういう発想は、ちょっと間違うと個人の責任を問わないものとして批判されても仕方がないものとなる。たしかに責任回避につながる面はあるのだが、そもそも罪というものに対する考え方が違うのだ。一口に罪とされるが、その罪が形づくられるにはいろいろな動因があり、単に個人を責めてすむものではない-そういう発想からすると、罪を発生させたのは個人だけではなく、他者、世間、家族、歴史、習慣、制度、教育・・・などさまざまなものが絡みあった総体ということになる。罪の主体を立てない表現には、そういう主張が潜んでいる」(呉善花)

〜〜〜

このような「述語的発想」を持ち合わせていない「憲法九条」や、その「信者」たちよりも、「述語」を主体とした「雑賀教授」が書いた「原爆碑」の「文言」や、「日本文化」こそが、「日本人」と「世界の人たち」や、「自然」や、「動物たち」を最終的に「幸せ」に出来るのではないでしょうか。

いまこそ「述語」。いまこそ「日本文化(人と人、人と自然や動物たちが述語で繋がっていた頃の文化)」です。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

[参考]

魂を抜かれた日本人―歴史に学ぶ日本人の生きざま・中条 高徳(著)

banner.png
↑投票よろしくお願いします。


posted by スーパー原始人 at 11:00| Comment(9) | TrackBack(0) | 日本文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月16日

「自然」と「不自然」の間の「バランス」

〜〜〜
(読売新聞より)

ネコ次々譲り受け虐待、愛護法違反で男逮捕へ…横浜

動物病院から猫を譲り受けては虐待していたとして、神奈川県警南署は16日にも、横浜市内の無職男(42)を動物愛護法違反の疑いで逮捕する。

 横浜市獣医師会が昨年10月、この男が猫を引き取りに来ても譲渡しないように注意する文書を市内の動物病院に出しており、11月時点では6匹の被害が確認されているという。

 調べによると、男は昨年9月ごろから、同市内の動物病院で引き取り手がなくて処分される猫を無料で譲り受けていたが、猫は相次いで行方不明になり、舌を切られたり、腰の骨を折られたりした猫もいたという。昨年11月上旬には、生後数か月の猫のツメが抜けてしまったとして、譲り受けた病院に受診に来ていた。

 南署が男の自宅を捜索した際は、死んだ猫も見つかっており、同署で虐待の動機を追及する。同市獣医師会によると、動物病院に届けられた猫は、引き取り希望者の身元を確認し、きちんと飼えると判断した場合に譲渡しているという。


〜〜〜

「人」は基本的に、「動物」を「容易」には殺せないように出来ています(自殺も含めて)。

そのことは「意識」がある人だけではなく、「無意識」の人でも同じです。「人」が「容易」に「動物」を殺せないのは、「ライオン」が「シマウマ」たちを「虐殺」したり、「ホロコースト」しないのと同じで、「生きる為の本能」です。

「地球」に「秩序」があるのは「生きる為の本能」があるからです。

「国を愛しなさい」

「先祖を敬いなさい」

「自然を大切にしなさい」

「他人に迷惑をかけてはいけません」

「男は男らしく、女は女らしく生きなさい」

「当たり前のこと」や、「常識」とは=「生きる為の本能に基づいた価値観」です。

そのような「自然の法則」に基づいて、「自然体」で「人類」が生活を送っていれば、「世界(地球)」は「平和」のなるように出来ています。

「国を愛しなさい」ということを「自然界」に置き換えれば、「群れを大切にしなさい」「森を大切にしなさい」ということと同じで、「群れ」や、「森」を「破壊」しようとするような「愚か者」は「自然界」には存在しません。

「人類」を除いては・・・。

「愛国心」や、「日の丸・君が代」や、「家族」や、「地域社会」や、「性別」を「否定」するような人たちは、「自然界」から見れば「完全に狂人」なのです。

そのような考えを持った「リベラル思想」とは=「狂人の思想」です。だから「リベラリスト」は「残虐」「残酷」なのです。

「リベラリスト」はなぜ「残虐」「残酷」なのか。

それは「速すぎる」からです。「人」が「正常」でいられるのか、「異常」をきたしてしまうのか、は「時間感覚」が決定します。

「正常な時間感覚」はどのような「人」でも「生まれてきた時」には有しているものです。

「人」が、「脳」と「身体」の「自然さ」を保っている限り「正常な時間感覚」は機能し続けます。しかし、「脳」や、「身体」を「不自然」な環境、状態に置いてしまった時、「人」の「時間感覚」は「狂い」はじめてしまいます。

「脳」や、「身体」の「不自然さ」は、「胸式呼吸」や、「口呼吸」や、「猫背(悪い姿勢)」や、「エレベーター・エスカレーターの使用」や、「自動車の使用」や、「性別否定」や、「過剰なGOD崇拝」や、「過剰な個人尊重」や、「過激なダイエット(男らしい身体、女らしい身体の否定)」や、「公の否定」などによって生まれます。

「脳」や、「身体」を持っていた「武士」の「斬る」=「武力」という行為と、「脳」や、「身体」を持っていない人たちの「殺す」=「暴力」は違います。

「戦前の日本軍」が、「高い規律」「高い倫理観」「高い責任感」などについて、他国の「軍人」や、「新聞記者」や、「現地人」たちから「賞賛」されたのは、「日本軍の軍人」たちが「武人」=「脳と、身体の自然さ」を持っていたからなのです。

逆に「欧米諸国」や、「特定アジア」の「軍人」たちが「暴走」したのは、「脳と、身体が不自然」であったからです。

「脳と、身体を自然に保つ」これが「正常な時間感覚」を身に付ける為の必須条件になります。

では「時間感覚」が「狂う」というのはどのような状態なのかと言うと、「通勤」や、「通学」の時に、「時間に余裕がある時」と、「遅刻ギリギリの時」の「精神状態」の違いについて考えるとよくわかります。

「通勤」や、「通学」の時に、「時間に余裕がある時」、大半の「人」は「自然さ」を保っていられるはずです。しかし、「遅刻ギリギリの時」は、どんな「人」でも「ヤバイ!ヤバイ!」「どうしよう・・・」と思って、「心(脳)」も、「身体」も「自然体ではいられない」はずです。そのような状態が「時間感覚」の「狂い」です。

「時間に余裕がある時」も、「遅刻ギリギリの時」も、「時計の針が進む速度」は同じです。しかし、「人」はそれを「全く別のもの」と感じてしまいます。そのような状態は「不自然な人類の脳」が生み出した「錯覚」なのですが、「人」の「脳」はそれを「区別」できるようには出来ていません。

だから「自然界」=「自然の真理」から見れば「明らかな虚像」であっても「人類」にとっては「真実」なのです。

「自然の真理」から見れば、「GOD」は存在する、ということや、「自然や、動物たちはGODが人の為に作った」ということや、「霊」や、「怨霊」などが存在する、ということなどは実に馬鹿げた話なのですが、それを「共産主義者」のように「否定」することは、「自己」に対する「虐待」であり、「存在」そのものに対する「否定」なのです。

「自然さ」も「不自然さ」も「人」にとっては「真実」である。

「メディア」や、「情報伝達手段」が著しく「発展」した「現代」にあって、「人類」が、「人と人、人と自然、人と動物たちが共存共栄できる地球」を作る為に考えなければならないことは、「自然さ」と「不自然さ」の間のどこで「バランス」を取るのか、ということです。

「エコカー」や、「ソーラーパネル」や、「風力発電」や、「省エネ」技術などは、「自然」と「不自然」の間に「人類」が見出した「素晴らしい支点」であると言えます。

「横浜」の「猫虐待」事件も、「人」と「動物」の間のどこで「バランス」を取るのか、という問題です。「動物」は「人」の為に存在するのだ!と考えるのか、「動物」も「人」も同じ命だ!と考えるのか。

そのような問題を考える際に「自然体で生活していた昔の日本人の生き方」は非常に大きな参考になると思います。

〜〜〜

「馬頭観音とは、百姓の牛馬を守り、人間のために働く物言わぬ家畜が病気に罹らないよう、さらに家畜が死んでも成仏できるよう、祈願するものであった。(略)この寂しい山中に、その小さな祠を発見できたことは、なんだかほっとする喜びであった。自分たちの馬や牛の霊魂のために祈るほどやさしい心の持ち主が、善意以外のいかなるものを持っているといえるのであろうか」(ラフカディオ・ハーン)

「日本人にとって自然を愛することは国の宗教のようなものである。子供たちは、ごく幼いときから石や植物や虫を愛することを教えられる。私が、言葉よりも正しい意味において「愛する」と言っていることに注意してほしい。実際、それは愛であって好感とか愛着というものではない。日本人が同胞たる植物に向ける愛は、心優しく生気あふれる真実の愛情である。仏教説話の神髄を滋養としてきた日本人は、木の枝が憂いに沈んだり、野の草が苦しんだり喜んだりする心が隠されていることを知っている。こういうことがすべて、幼児の感性を育てるうえで素晴らしい教育となっている」(エンリケ・ゴメス)


〜〜〜

「人類」の「基本構造」は、「人種」や、「民族」が違っても大差はありません。

だから「自然」と「不自然」の間のどこで「バランス」を取るのか、ということは、「人」の違いよりも、「環境」の違いによります。

現在「不自然さ」に走り、支配され、「愚か」にも、「人」や、「自然」や、「動物」たちを「傷付けている」人たちも、「生き残る為」には、「不自然さ」を必要としたり、「過去」において必要とした人たちの末裔たちなのです。

そのように考えれば「差別」や、「奴隷」や、「虐殺」や、「環境破壊」なども「存在する理由」があるわけです。

そこまで「到達」していない、「平和」や、「人権」や、「環境」や、「経済」論争は、「問題の本質」を見えなくしてしまうだけです。

そのことをまず「認識」することから初め、「具体的」に我々「日本人(人類)」はどのような「未来」を目指すのか、を決めなければなりません。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

[参考]

新編 日本の面影・ラフカディオ ハーン(著)

こんなに違う! 女の脳と男の脳・米山 公啓 (著)

banner.png
↑投票よろしくお願いします。


posted by スーパー原始人 at 17:33| Comment(4) | TrackBack(0) | 日本文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月04日

「笑い」を活かす

「笑う門には福来る」

という「ことわざ」が正しいかったことは、「科学技術」と、「医学」の発展により証明されました。

「人」は「笑い」ながら、本気で「怒る」ことや、「憎しむ」ことや、「悲しむ」ことは出来ません。

そのような「機能」を、「神さま」が与えてくれたのか、「数百万年」の人類史の中で自ら身に付けたのかはわかりませんが、「人」は「笑う」ことによって多くの「危機」を回避し、「負の要素」を打ち消して来ました。

最近の「お笑いブーム」も、「日本の左巻き」や、「特定アジア人」などが毎日毎日垂れ流す「夢も希望も無い薄汚れた言葉や思想」に対する「国民」たちの「防衛本能」が、「社会」に「笑い」を必要としたという面もあるのでしょう。

「笑い」と「日本人」

我々が普段、意識することはありませんが、「笑う」ことは立派な「日本文化」なのです。

「笑い」と「日本人」について、「樋口清之先生」はこのように著書に書いています。

〜〜〜

「天の岩屋戸の説話は、一度なくなった人の霊魂を、人々の笑いによって振り動かし、魂を再生できると考えていた古代人の思想を伝えているのである。

 古代人にとって、笑いは一種の呪術であった。神笑いといって、神様の前で笑うと、神の力、笑いの行動によって、人間はしあわせになれるという考え方である。地方の農村に残る笑い祭りは、村人たちが祭りの日に集まって、古老の、

「さあお笑いなされ、毎年のようにお笑いなされ」

の音頭で、一同が大声を上げて笑うと、稲の穂の生命力が増し、豊作に恵まれるという信仰から出発している。(略)

 日本人は、おかしい、こっけいだからと笑うだけでなく、恥ずかしくとも、苦しくとも、悲しくとも、怒っても、ふてくされても笑う。笑いが全ての感情表現の代表になっているのは、笑いそのものの原点に、おかしい、うれしいというような言葉の役割としての笑いではない「笑い」があるからである。長い間の習慣として、それが親から子へ、子から孫へ、一つの環境となって伝えられ、心の中に独特な笑いが定着しているので、欧米人には理解できないのだろう。

 眉の間の筋肉(愁眉筋)に縦にしわを寄せると苦悶の表情になるが、苦悶の表情を顔に浮かべると心がいっそう暗くなり、悪い状態に陥ってしまうと考える信仰が昔からあった。顔全体の表情を開くと幸運に恵まれるという思想である。日本では開くことを非常に喜ぶ。末広がりといい、やめる、終わるという語をきらい、お開きという。顔だって開かなければいけないと考えてもおかしくはない。顔の表情を開くと笑いになる。

苦しいのに笑いに近い表情を浮かべている人に出会った外国人が、「日本人は感情表現を知らない」と笑った話をよく耳にするが、日本と日本人をまるで知らない評だろう。民俗学的な立場から考えると、日本人の笑いは一種の呪術であり、あらゆる内容の笑いがある。だから、笑いはおかしいとき、うれしいときだけの感情表現だと思っていると、どうしてこんなとき笑うのかと理解できないだろう。日本人の笑いは、よくいえば非常に深い意味があり、悪くいえば複雑でわからないといえるかもしれない」(日本人の履歴書 ・樋口清之)


〜〜〜

「文化」や、「伝統」とは、「過去の住人」たちが「試行錯誤」を重ねた末に生まれたものです。

だから、そこには必ず何らかの「意味」や、「根拠」があります。「日本人」が「笑いの文化」を築き上げたのも、「笑う」ことによって「人体」や、「社会」に生まれる「影響」を、「体験」や、「経験」から学んだからであったはずです。

そのように考えれば、「罰(ばち)」や、「祟り」や、「ことわざ」や、「迷信」にも、「過去の住人」たちの「英知」が詰まっていることがよくわかると思います。

「笑いを文化にした日本人」

そんな「日本人」を見た「外国人」の中で、「日本人の笑いの文化」を理解した「ディクソン」は、「戦前の日本人」を見てこのように言っています。

〜〜〜

「西洋の群集によく見られる、苦労にひしがれた顔がまったく見られない。老婆から笑っている赤児まで、にこやかで満ち足りている。彼らを見ていると、この世に悲哀など存在していないように思われる。このような人びとの物腰ほど、外国人の心を魅するものはない」(ディクソン)


〜〜〜

「教育界」や、「政界」や、「マスコミ」から、「左巻き」や、「特定アジア人」たち(根暗で、陰湿で、暴力的な)がいなくなれば、「日本」はどれだけ「明るく」なるのか、「国民」たちに「笑顔」が溢れるのか。

「いじめ」や、「虐待」や、「自殺」などが頻発しているのも、そんな彼らの「負の思想」の影響を「日本人」が受けてしまっているからです。

「日本人」は「笑いの文化」をもっともっと活かすべきでしょう。「負の思想」は「明の思想」で打ち消すことが出来るのですから。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

[参考]

日本人の履歴書・樋口清之(著)

人はなぜ笑うのか―笑いの精神生理学・志水 彰 (著), 中村 真 (著), 角辻 豊 (著)

笑いの健康学―笑いが免疫力を高める・伊丹 仁朗(著)

banner.png
↑投票よろしくお願いします。


posted by スーパー原始人 at 14:10| Comment(2) | TrackBack(0) | 日本文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月03日

「体」を活かす

「保守」とは「過去」においては「リベラル」でもあったものです。

その「保守」と「リベラル」を、「世界」の「トレンド」である「対立思考」で見たならば、「保守」と「リベラル」は相反する「思想」ということになります。

実際、「日本」の「政界」や、「マスコミ界」の、「保守勢力」と「リベラル勢力」との関係を眺めてみると、両者が相反していることがよくわかります。

最近、「日本の若者は保守化していて情けない・・・」などと「批判」する声が「リベラル派(団塊の世代を中心とした)」から聞こえますが、「リベラル思想」とは基本的に「有事」のものであり、「破壊者」や、「自己喪失者」が持つものです。

このような現在の「日本」の「社会構造」を簡単に見ると、

「大人化(成熟)する一部の若者」と「餓鬼のままのリベラル派」

ということになります。

「憲法改悪反対!」「教育基本法改悪反対!」「靖国参拝を止めろ!」「核議論はするな!」「審議拒否だ!」

と「議論」することも、「説明」することも出来ずに、ただ喚き散らしてばかりの「リベラル派」の「議員」や、「マスコミ」関係者たちは、「大人化(成熟)した一部の若者」たちに次々と「論破」され「大惨敗」を喫し続けていますが、「餓鬼のままのリベラル派」が負けるのは当然で、彼らの「ことば」を「翻訳」すると、

「憲法を変えちゃやだぁ〜!お菓子買ってよ〜!」

という「レベル」でしかなく、「保守」と「リベラル」を「同列」に扱うということは、「アントニオ猪木」と「アントニオ小猪木」のどちらが「強い」のか?とまじめに「議論」するくらいに馬鹿らしい話なのです。

そのようにいまの「日本」の「リベラル」の大半は、本当に情けの無い「レベル」なのですが(ネットを見ると物凄くレベルの高いリベラル派もいるのですが、彼らには活躍の場が全く与えられていません。その辺がリベラル派が凋落した大きな原因でしょう)、問題とすべきことは「勝敗」でも、「保守」、「リベラル」という「主語」でもなく、両者の提示する「述語」が、「国民」たちを「幸せ」にするのかどうか、ということです。

「思想」や、「政策」が「国民」を「幸せ」に出来るのかどうかを見極める為の、一番確実な「基準」は、

「心」「技」「体」

です。「心」「技」「体」がこの並び順になったのには様々な理由がありますが、その中の一つに、「後天的変化の自由度」の差があります。

「体」については、「家」や、「両親」や、「時代」などと同じで、「生まれた時点」の影響が非常に大きく、「生まれた後」にどんなに努力を重ねても「超えられない壁」が存在します。

しかし、「技」と「心」については、「生まれた後」の努力次第では、「体」の差の壁を超えることが可能です。

「心」「技」「体」の関係を簡単にまとめるとこのようになります。

「不確実(不確定)」・「心」「技」「体」・「確実(確定)」

この世の中の殆どは、「不確実」と「確実」のどちらに比重を置くのかで形成されています。

「心」を重視すれば、「愛国心反対!」「靖国参拝反対!」「道徳教育反対!」「死刑反対!」などと言う「自由」は確保されますが、そのことは同時に、「犯罪」や、「虐待」や、「いじめ」や、「汚職」などを誘発し、「社会」は「不確実(不安定)」なものとなってしまいます。

そのような「社会」は「弱肉強食化」し、「不必要な犠牲者」と「不必要な争い」を生み出し続けてしまう、「普通の人」では適応できない「社会」となってしまいますから、「体」の方へ比重を移して「バランス」を取る必要があります。

そこで生まれたのが「人を殺してはいけない」「人を騙してはいけない」「国を愛しなさい」「両親を大切にしなさい」「食べ物を粗末にしてはいけません」「男は男らしく、女は女らしくしなさい」などという「律」や、「法」や、「道」などです。

「心」と「体」の関係をもう少し細かくまとめると、

「心」は「架空」と繋がっていて、「体」は「大地」と繋がっています。「心」は「個」や、「GOD」という「不自然」を求めます。「体」は「公」や、「八百万の神々」という「自然」を求めます。

「環境破壊」や、「差別」や、「戦争」や、「クローン」や、「核兵器」などが生まれるのは、「人」が「心」に傾きすぎているからです。

これらを生み出したのは「リベラリスト」ですが、「リベラル思想」とは、「質」が低かったり、「放置」してしまうと、多くの「人」たちを必ず「不幸」にするものです。

だから「体」=「保守思想」で「バランス」を取る必要があるのです。

「自動車」という「リベラル」は、「不自然」なものですから、「環境」や、「生態系」を「破壊」します。それでは「目先の利益(利便さ)」を得ても、最終的にはそれ以上の「不利益」を被ってしまうことになります。

そこで「体」=「自然」の「思想」でバランスを取らなければならないのです。

「心」に偏った「自動車」を、「体」が修正したものが、「ハイブリッドカー」や、「燃料電池車」や、「ソーラーカー」などです。

「オイルショック」の際に、「世界各国」が「新たな資源」の争奪に血眼になっている中(心=エゴに基づいて)、「日本」だけが「省エネ」に走ったのも、「日本人の思想」に「体」がしっかりと宿っていたからなのです。

「技」=「技術」とは本来、「心」と「体」のバランスを取るべきものです。それがいま「心」=「個」の方にばかり偏ってしまっているから、「世界」には「不必要な不幸」が溢れているのです。

「個」の為に「核兵器」を利用する人は「世界」を「不幸」にします。

「個」の為に「宗教」を利用する人は「世界」を「不幸」にします。

「個」の為に「政治」を利用する人は「世界」を「不幸」にします。

そんな当たり前な「答え」を「人類」が忘れてしまっているのも、「体」を粗末に扱い続けているからです。

「体」とは、「数百万年」どころか「数十億年」の「答え」です。

しかし、「心」とは、「一分一秒」ごとに変わって行くものです。

「ジェンダーフリー」や、「日本国憲法」が「人」を「不幸」にするのは、そこに「体」が無いからです。

たかだか「数十年」しか生きていない人が、「数十億年」の「答え」である「体」に逆らって生きることは愚かなことです。

「自殺」や、「いじめ」や、「虐待」や、「依存症」などだけではなく、「差別」や、「戦争」や、「環境破壊」なども「体」を重視することで大幅に減少させることが出来るのです。

「日本再生」の鍵は「体」にあります。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

[参考]

身体から革命を起こす・甲野 善紀, 田中 聡(著)

身体知-身体が教えてくれること・内田 樹, 三砂 ちづる(著)

武道の心で日常を生きる―「身体脳」を鍛えて、肚を据える・宇城 憲治(著)

banner.png
↑投票よろしくお願いします。


posted by スーパー原始人 at 14:40| Comment(0) | TrackBack(1) | 日本文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月26日

「時間感覚」が狂った人が「現在」を破壊する

〜〜〜
(時事通信より)

「クリスマスの執行残念」=死刑廃止議連が会見−東京
 「死刑廃止を推進する議員連盟」の福島瑞穂社民党党首らは25日、東京・霞が関の司法記者クラブで会見し、「クリスマスに死刑が執行されたのは残念だ。年末のばたばたの中で執行するやり方は改善されるべきだ」と訴えた。


〜〜〜

「福島瑞穂は狂っている」。と言っても「頭が狂っている」というわけではありませ